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コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

映画監督はなぜ「偉い」と思われるのか?リニアにコンテンツを見てもらえることは今や凄い特権だ―源氏物語からニコ動まで。コンテンツを分類する3次元マトリックス(3)

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2時間という時間、お客さんを暗室に入れ、自分自身の「映像世界」を大音量とともに浴びせ続ける、これは上記のダンサー・イン・ザ・ダークの例で私が、吐き気を催したように、比喩的でなく、暴力あるいは洗脳にすらなり得るくらいの激烈な密度を持った体験になり得ます。そして、こういった「特権」を有している(時限付きの)独裁的表現者であるがゆえに、映画監督は特権的なクリエイターとして社会から認知され、尊敬を得ているのではないでしょうか。時間軸において全権をコントロールする責任ゆえに、映画の内容が素晴らしければ、鑑賞者は魂を揺さぶられ、涙を流して感動し、頼まれもしないのに、絶賛のレビューをネット上に書き、友人・知人にはどれほど良い映画だったかを熱く吹聴して廻ります。逆に駄作であれば、これは、もう罵詈雑言の嵐です。(もちろん、映画が有料コンテンツだから、ということもありますが、駄作映画が口汚く酷評される理由には、金だけじゃなく、オレの時間を返せ!という不満が間違いなくあるはずです)

映画以外には、長編小説も「リニア」なコンテンツです。しかし、書物の場合は、映画よりも、読み飛ばす自由や、どれくらいの速度で読むかを選ぶ自由は、読者に委ねられています。しかし、基本的には、冒頭1ページ目から読み始め、最後のページまで、読み飛ばさずに読むという意味では、長編小説はリニアなコンテンツと言えるでしょう。そして、デジタルとの比較でいえば、印刷メディア全般が、表紙から始まり、表紙からページをめくっていくという物理的な特性ゆえに、生来の「リニア」性を持っています。雑誌も、台割の順序で読者の心理的な印象に影響を与えることを狙いますから、それなりにリニア性を持ったコンテンツと言えなくもありません。(筆者が創刊に関わったフリーマガジンのR25では、表紙に近い、前めの台割に政治経済のニュースの解説など固い記事を配置し、後ろに行くに従って柔らかい記事が多くなるのですが、これは、R25の閲読場面として想定した通勤電車の帰り道、というTPOを想定し、想定読者であるM1層サラリーマンの気持ちに沿う形で、台割の「リニア」性を工夫したものです)

さて、ここからはノンリニアの解説になります。ノンリニアなコンテンツの特徴はといえば、リニアの逆です。つまり、制作者ではなく、読者側に時間軸のコントロールが委ねられており、最初から見なくてもいいし、どこからどう見ても成り立つように断片化されてバラバラになっているコンテンツということになります。具体的には、広辞苑のような辞書や辞典、カタログなどの類がノンリニアなコンテンツの典型です。

具体的に、日本の歴史というジャンルのコンテンツにひきつけていえば、

  • NHK大河ドラマ、司馬遼太郎の小説=リニア
  • 山川の日本史用語集=ノンリニア

という対比ならば、ご理解いただけるでしょうか。

そして、Webサイトが典型ですが、デジタルメディア上では、ほとんどのコンテンツが、ノンリニア的になっていく、ある種の「引力」に影響されています。デジタルというもののアーキテクチャ自体が、どうしても、そういう方向にコンテンツを導きますし、特にWeb上では、ソーシャルメディアや検索エンジンから、トップページやナビゲーションを辿らない形での直リンクでの流入が傾向的にどんどん増加しているためです。今や「トップページからグローバルナビをたどって、各階層のコンテンツを見る」というユーザー行動はサイト設計者の脳内にだけ存在する「幻想」になりつつあるとすら言える状況です。

筆者は、VOGUEやGQJAPAN、WIREDなどの雑誌記事を元にWebサイト化する仕事に携わって来ましたが、元々の雑誌レイアウトのなかにおいて、持っていた台割によるストーリー性や文脈といったものは、Web上に記事を落とした瞬間に剥げ落ちてしまいますが、これはもう致し方ありません。また、例えば雑誌の台割感を、無理にWebサイト上でいわゆる「ページめくり風」のインターフェースで再現したところで、違う植物同士を接木するようなもので、ユーザー心理から見れば不自然なことこのうえなく、不格好な押し付けと感じられてしまい、有効には機能しません。

また、リニアなコンテンツというのは、ある程度、集中した時間を投下することをその視聴者に要求しますが、現代の生活者に対して、連続した時間消費を強いること、それ自体の負荷が高くなりつつあると思います。例えば、映画を1本見る、つまり連続した2時間を一つのコンテンツに捧げることの方が、毎日15分、朝の連ドラを2週間に渡って見るよりも、ずっと心理的コストは大きく感じられるというのが現代のメディア状況かもしれません。これは、延べ時間の総量の問題では必ずしもありません、割り込みが入らない形で、連続した時間を確保することがどんどん難しくなっているのです。(この傾向は、据え置き型コンソールでのテレビゲームに対する、スマホで、一回あたりプレイ時間が短時間ですむソーシャルゲームの優勢などにも見て取れます。また、Youtubeのコンテンツが最長で10分間なのは、著作権的な問題から映画やテレビ番組の違法アップロードを阻むためというよりは、今やそもそものYoutubeの視聴シーンを考えると10分で区切ることが、ユーザーの利用シーンとマッチしているから、とも思えます)

このように、いわゆるリニアなコンテンツ形態とは真逆の「ノンリニア化」さらには「マイクロ・コンテンツ化」がドンドンと進展しているのが、今のメディア・コンテンツ消費の現場です。そして、現代のメディア消費者は、特にPCやスマホ上では、時間軸を自分でコントロールすることに慣れきっています。例えば、Webサイト上では、リッチ広告を全画面で展開する場合など、見たくないユーザーのために「スキップボタン」を用意しておかないと、かなり反発が大きいですね。映画館のような物理的なハコを持ち、そのように心理面も含めて、TPOをセッティングするならば別でしょうが、いつも使っているPCやスマホ上に向けて、どんなに高品質のリニアなコンテンツを用意しても、数十分の長尺モノであれば「これからは頭のモードを切り替えて、こちらの世界に浸ってくださいよ」と呼びかけたところで「ん?なんか、ダルそうな話だな、いいや、これ見るの止めて、ちょっとTwitterのレスでも見てよっと」となってしまうのが、今のユーザー行動のありがちなパターンなのです。これは、アーキテクチャの影響力が為せる業であって、別に個別のコンテンツの良し悪しとは、あまり関係がありません。CDがなぜ74分なのか?のコラムでの例に基づいて説明すれば、牛丼チェーン風のハイチェアのカウンター席にいるお客さんに、3時間もかかるフルコースのフレンチを給仕するようなものです。「美味い」とか「不味い」とか、「高い」とか「安い」の前に、そもそも場面として、ミスマッチなのです。ゆえに、コンテンツの内容の品質以前に、映像業界的にいう「尺の長さ」とユーザー心理や動機、ユーザーの閲覧TPOとのマッチングいうものが、映像に限らずに、これからのコンテンツ編集者にとって、常に配慮すべき項目であることがお分かりいただけるでしょうか。

さて、今回私の言いたかったことをまとめます。コンテンツには、リニアなものと、そうでないものがあり、その二つの特徴は以下のように整理できます。

頭から最後まで見てもらうことを想定した「リニア」:映画、長編小説など
=視聴者の時間コストが高く、視聴者層は、狭く深い。純エンタメ向き。少人数から高課金に。

順不同で断片的に見てもらうことを想定した「ノンリニア」:辞書、カタログなど
=視聴者の時間コストは低く、視聴者層は広く浅い。実用コンテンツ向き。多人数から小課金or広告モデル。

そして、3回に渡って説明してきた3次元マトリックスで言いますと、「フロー」⇔「ストック」、「参加性」⇔「権威性」、「リニア」⇔「ノンリニア」の3次元において、デジタル化やスマホ化、ソーシャル化の進展というものは、「フロー」⇔「ストック」の軸においては、引っ張り合う力が拮抗して、中立に思えますが、「参加性」と「権威性」の軸では、「参加性」へ。「リニア」⇔「ノンリニア」の軸では、「ノンリニア」のほうへと、コンテンツのあり方を変えるように「引力」を発揮しつつあると筆者は見ています。

プロ・ゴルファーが風向きを、船乗りが潮の流れを意識するように、上記のような3次元の軸に基づいて、しっかりとした方向感覚を持ち、デバイス環境や生活者の可処分時間の動向まで含め、現在のメディア潮流がどのように変化しているのかを、自分自身の立ち位置と共に正しく把握すること。それは、自分自身が編集しているメディア・コンテンツが、たとえ辞書であろうが、旅行ガイドであろうが、ファッション雑誌であろうが、ニュースサイトであろうが、等しくこれからのメディア編集者にとって必要なスキルだと筆者は思っています。

3回に渡って紹介してきた3軸が、ジャンルやアナログ⇔デジタルを超えた編集者間での共通言語となり、相互での議論を触発することを祈っております。皆様のご意見をお待ちしております。

田端信太郎「メディア野郎へのブートキャンプ」 バックナンバー

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