メール受信設定のご確認をお願いいたします。

AdverTimes.からのメールを受信できていない場合は、
下記から受信設定の確認方法をご覧いただけます。

×
コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

FTの紙はなぜピンク色?-ネットメディアがブランド化するために必要なもの

share

なぜ、そのブランド選ぶのか? そのブランドでなければいけないのか?
この問いについて、合理的に全ての理由をユーザーから理路整然と説明されてしまうようでは、「ブランド」足りえません。

「なぜ、TUMIのバッグをお使いですか?」
⇒「軽くて頑丈だからです。」

「カーボンファイバーの新素材を活用したビジネスバッグをビックカメラが自社製造で発売するそうですよ。強度はTUMIのバリスティック・ナイロンよりも3倍強く、重量は30%減。値段は10分の1です」
⇒「あ、じゃあ、そっちに乗り換えます。」

というような会話が、ためらいもなく成り立ってしまうようでは、真の意味ではブランドではないと思います。定量的なスペック競争でNo1であることと、ブランドであることは、やはり何かが違うことなのです。

そして、ブランドがブランドたり得るためには、消費者が、作り手に対して、底の見えない深い井戸を覗きこんだように、得体のしれない尊敬や信頼を感じさせることが理想的です。メディア業の提供物は、手にとって触れたり、匂い嗅いだり、出来ないわけなので、読者から見た「メディアの品質」とはつまりは「その作り手を信頼できるかどうか。リスペクトできるかどうか?」問題とイコールになります。

そして、この文脈で言えば、日本のWebメディアが、クリック幾らインプレッション幾らの焼畑ビジネスになってしまっていて、ブランド化できていない原因は、根本的には、メディアの作り手である、編集者やライターが、読者や広告主から獲得している畏怖の念にも似たリスペクトの量が足らないことが根本の原因ではないのだろうか、と私は思っています。

ネット上では、新聞や雑誌といった旧マスメディアに関わる大手企業の社員を指して「上から目線」の「勘違いマスゴミ」などと揶揄し、罵倒するムードがあります。私も、その気持ち自体はよく分かりますが、プロとして、満足に報酬を得ようとするならば、お客さんから「ナメられたらオシマイ」であり、一定の「上から目線」は、ある意味では、当然の前提なのです。

かつて雑誌の古き良き時代に、成功し一時代を作った良い雑誌とは、その中に100P(ページ)の記事があるとすれば、本当に面白く読めるのは20〜30P、そして時間があれば読むというくらいの記事が40P〜50Pで、最後まで「何が面白いのか良く分からない記事」というのが 20Pから30Pくらい含まれているものでした。

そして、今にして思えば、不思議なことですらあるのですが、その最後の難しくて、何だか良く分からないような記事ですら、「きっとこの雑誌に載っているからには、自分にとって価値のあることが書かれているに違いない」「そういう記事を作り上げられる編集者は、自分の理解の範疇を超えた存在であって、凄い人達なのだ」という感情が湧いたものでした。

現在の一般的なWebサイトのコンテンツ編成は、全ての記事やカテゴリ、サイトコーナーで、同じように読者のウケを狙い、PVを取りに行くような記事ばかりになってしまっている例が多いのです。メディア全体の「格」をあげるための格調高い(捨て)記事を作ったところで、リニア構造の雑誌と違って、ノンリニア構造のWeb上では、読者には、記事の存在すら認識されずに、見られ、読まれる可能性がほとんどないのですから、良いも悪いもない現実とも言えます。

結果的に、読者のウケを狙ったような記事ばかりが、メリハリもなく金太郎飴のように、サイト内を埋め尽くし、読者は「あぁ、このサイトの編集者やライターは、PV乞食みたいに、PV欲しさで頭が一杯なんだな~」「ネタとして考えていることも、だいたい自分の理解の範疇に収まるような、退屈な連中だな」と思われてしまうでしょう。要するに「ナメられている」わけです。

こんな状況では、作り手への尊敬や畏怖の念などは、なかなか生まれて来るはずもありません。

前半でFTについて書きましたが、FTのピンク色の紙を小脇に抱えるというのは、FTの編集者や記者への「信仰告白」にも似た行為です。要は、クリスチャンが、十字架のネックレスをし、仏教徒が数珠を腕に巻いているようなものです。もし、FTの記者や編集者にスキャンダルが相次ぎ、記事内容に誤報が相次ぐならば次第に「ピンク色の紙を小脇に抱えること」は、ダサい行為になるのでしょう。FTのジャーナリストが、イエス・キリストやブッダのような聖人君子であり、賢人であるということが、広く社会に共有されていることがその前提になります。ニッチでも構わないのですが、そういう類の「リスペクト」を社会的に受容されているメディア編集者の数が少ないことが、ネットメディアがブランド化しきれない現時点での根本原因ではないか、と私は思っています。

ちょっと回りくどくなったので私の言いたいことをまとめます。

ノンリニアなメディア構造は、全ての記事コンテンツで、即物的に読者の「ウケ」を取るようなプレッシャーを作り手にかけます。

しかし、そのプレッシャーに過剰に適応して、読者の興味に迎合した記事ばかりを均一に量産してしまうことは、長期的には、読者からのリスペクト獲得の機会を捨てることにつながります。

そして、読者から作り手への尊敬・信頼・畏怖の念を欠いたメディアは単なるPV競争に陥り、クリック幾らの叩き売りになることで、長期的には、ビジネスとしても痩せ細っていきます。

この悪循環を脱する道は、読者から尊敬されるような、ベタに言えば「舐められないような」存在に、メディア編集者がなっていくしかありません。単なる「勘違い」や「傲慢」に陥らずに、ギリギリのバランスを取りながら「俺は、私はこう思う」的な熱き想いを、読者に問うところが、その原点になるでしょう。

エロ、グロ、バイオレンスな話題、セックス・スポーツ・スキャンダルの3Sの話題がPVが取れることは事実です。しかし、そうだからといって、読者を見下さず、読者を尊敬し、読者からリスペクトされること。メディアがブランド化し、豊穣としたメディアの生態系が出来ていくためには、このあやふやなバランスの中を関わる編集者やライターがもがき続けることにしか、未来はないように思えております。

田端信太郎「メディア野郎へのブートキャンプ」 バックナンバー

もっと読む