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コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

編集権の独立―オウンドメディア普及の時代にこそ、発揮される価値

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なるほど、メディアというものが、経済的・法律的には送り手である企業の「所有物」であることは紛れもない現実です。しかし、そもそもメディアとは送り手と受け手をつなぐ「媒介・媒質」のことであり、受け手に影響を与えないメディアには存在意義はありません。それゆえ、送り手企業の経済的利害を満たすことを第一の判断軸にして、メディア運営における編集判断がなされることは、必ずや、読者の離反を招き、結果的に、送り手企業の所有物としての「企業価値」や「資産価値」も破壊してしまうことになるはずなのです。

大事な部分なので、マンガ的な架空の状況を用いて、丁寧に説明したいと思います。例えば、日経新聞の業績が悪化したことを利用して、ソフトバンクの孫正義社長が、日経新聞を買収したとしましょう。買収の直後、孫社長は、日経新聞の全ての記者を集めて、演題からこのようにスピーチします。

「これからは、みなさんは、ソフトバンクグループの一員です。ソフトバンクの株価が上がり、ソフトバンクモバイルの加入者が増えるような記事を大いに書いてください! 株価の上昇と加入者拡大に貢献するような記事を書いた記者には人事査定で大いに評価します!」

こんな命令を下したことが外部に漏れ、ソフトバンクを持ち上げる記事が紙面に溢れれば、日経新聞をこれまで購読していた読者は必ずや幻滅し、その結果として広告主も離れ、結果的には販売収入と広告収入もダウンすることまちがいなしでしょう。ついには、買収した株式価値も毀損されてしまうのではないでしょうか。だから、マトモなメディア企業の経営者ならば、M&Aの直後でも「編集権の独立は尊重する。別に親会社の株価が下がるような記事でも、読者のためならば大いに結構だ。存分に書きたまえ!」というように、少なくとも建前・ポーズの次元では、「編集権の独立」を尊重するのが、業界スタンダードです。そして、そのことを担保するために、平常時でも、編集長を筆頭に、編集系スタッフの人事権やレポートラインと、広告部門とを分けることが一般的です。

(ちなみに、筆者はlivedoor事件の発生した当時、livedoorニュースの責任者を務めていましたが、「ホリエモン絶体絶命!逮捕まで秒読み」というような自社にとってのネガティブ記事、株価が下がるようなマイナス情報を、むしろ積極的にポータルサイトlivedoorのトップページに掲載することを決めました。自社のスキャンダル記事を黙殺したり、隅のベタ記事ですませるような新聞社やメディア企業が多い中で、この方針を取ったことを筆者は、今も誇らしく思っていますし、ビジネスジャッジとしても、livedoorのメディア事業の価値向上のために、多少は貢献できたのではないかと思っています)

これまで書いてきたような、非常にアナログで人間臭い事例以外にも、「編集権の独立」というものを、もう少し広く捉えることも可能です。

例えば、アルゴリズムが「編集機能」を発揮する今日の状況では、「編集権の独立」は、編集者や記者だけが関わるものではなく、プログラマーが組み上げるアルゴリズムにも関わるものなのです。具体例としてあげるならば、もしグーグルが自社にとって都合の悪い情報を検索結果から消去したり、競合にあたるようなFacebookやAppleという単語での検索結果を意図的に改変していたら、皆さんは、どう思うでしょうか?「世界最高品質の検索エンジン」としてのグーグルのブランドイメージは大きく傷つくのではないでしょうか? 

私が知る限りでは、グーグルが、自社のオーガニックな検索結果を、政治権力や広告主などからの圧力に屈さず「高潔なものに保とう」と努力する姿勢やモラルのレベルは、かなり高いように思われます(傍証として、中国政府との「妥協」を拒否して、中国市場から「追放」という事態すら招いたことが挙げられます)。

さて、広告ビジネスの観点から「編集権の独立」を見るとどうなるでしょうか。

「編集権の独立」を振りかざして、広告主のネガティブな記事を書いたりする編集者や記者というのは、実に厄介な存在ですね。確かに、広告営業マンやメディア企業経営者にとって、「編集権の独立」を尊重するというのは、なかなかに忍耐を必要とすることです。

しかし、一見、矛盾するようですが、編集者や記者の「高潔さ」「独立性」もまた、大いにビジネス上で利用可能なリソースと言えるのではないか、と筆者は考えています。

いまや、ネットの普及やデジタルメディアの技術革新により、大手の広告主であれば、いわゆる「オウンドメディア」を持つこと自体は非常に簡単になりました。これは、つまり広告主にとって「自分の言いたいことを、そのまま読者に伝えるだけ」ならば、「オウンドメディアで十分」という時代の到来です。

しかし、「オウンドメディア」には、深刻な構造的欠陥が埋め込まれています。オウンドメディア上では、「編集権の独立」が担保されるような仕組みや組織風土が薄弱なところがほとんどではないでしょうか。つまり、オウンドメディアは、魂を欠き、牙を抜かれたサラリーマン編集者が、下請けマインドで、生ぬるい提灯記事ばかりを山盛り掲載していく三流メディアになってしまいがちなのです。なるほど一般読者は、プロのメディア業界人からみたら、一見して単細胞に見えるかもしれませんが、その全体集合としては、サラリーマン記者が、魂を込めず、投げやりに書いたPR記事ばかりが掲載されているメディアを無意識のうちに見抜き、「しょうもない三流メディア」と脳内で格付けしていくセンサーを長期間においては、必ず発揮していくと筆者は確信しています。

もし、日経新聞を買収した孫社長が記者に「ソフトバンクの株価を上げる記事を書け」と命令したならば、一般人も含め、大笑いものでしょう。しかし、こと広告主による「オウンドメディア」を巡っては、上に書いた架空の孫社長発言を笑えないような意識レベルのものが、多いように思っています。

逆に、そのような状況だからこそ、本来のメディア企業においては、「編集の独立」を発揮して、読者のための記事を提供しないと、メディアとしての存在意義がなくなっていく・・・そんな状況が、この2010年代と言えるのではないでしょうか。

「編集権の独立」が担保された高潔で信頼感あふれるメディア。このようなメディアとしての編集上の高潔さ、信頼感を「Editorial Integrity」とも言いますが、このような「高潔さ」は、一朝一夕に、オカネで買うことの出来ない価値とも言えます。そして、直接に広告メニューに載っておらず、お金で買えないように見える価値だからこそ、Pricelessなオーラをまとって、ビジネス上の差別化要因となりえ、高いマージンが保証されたメディアの基盤となるのではないでしょうか。

さて、最後に釘を差しておきたいのは、「編集の独立」とは、「ジャーナリスト様」が、ビジネスを統括する管理者に向かって、「俺らのやることに口を出すな」と自分たちの既得権や組織を守るために居直るための「盾」ではないということです。「読者やユーザーの利益のために、メディアの影響力が行使されること」を確保するためのテーゼだと、私は思っています。「全ては読者のために」です。

「編集の独立」を欠いたメディアというのは、信仰心のない教会や寺院のようなものです。しかし、教会や寺院が曇りのない「信仰心」だけでは維持できないように、メディアもまた、売上や利益を必要とします。そのような状況において「編集権の独立」とは、決して、額に入れて飾っておくようなものでなく、関わる一人ひとりが、毎日の仕事の中で、培っていくしかないもの。極めて危ういバランスの中で、最終的には関わる人間たちの、気構えによってしか維持されないものだとも思っています。

自分自身の立ち位置が、編集だ、記者だ、広告だ、ということを離れ、メディア業界人として、「編集権の独立」にどう向き合うか? 常に頭の片隅で気にすべきテーマだと筆者は思っています。

田端信太郎「メディア野郎へのブートキャンプ」 バックナンバー

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