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コラム

アメリカ女子高生 デジタルネイティブ日記

娘から突きつけられた人生の課題。マーケティングは人を救うか?

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高校生の娘と共に書いてきたコラムも、いよいよ今回が最終回である。私たちのコラムに「いいね!」をくださった方々に深く感謝したい。最終回は、アドタイ編集部のご厚意により、私たちの仕事について書いてみることになった。

このコラムを共著で書いている間に、高校生の娘は18歳になった。誕生日を迎える少し前に、高校から私たちに一通の手紙が届いた。そこにはこう書いてあった。「あなたの娘は18歳になりました。そのため、これからは彼女の責任と意思で登校させることができます。承認しますか?」

つまり、娘が黙って学校をサボろうが遅刻しようが、金輪際、連絡しませんよ、という内容の契約書であった。そればかりか、18歳になった時点で自分の意思で高校を退学する子どももいるそうだ。娘は、自分の行動に責任をもつことと引き換えに、ちょっとした自由を手に入れることができる、そんな年齢になったのだ。

救急隊 消防隊
娘たちは高校の授業の一環で、
消防隊や救急隊と実際の現場で働いている。

私たちが合意しようがしまいが、娘は、少しずつ親離れを始めている。受験の時期になって、それが次第に明らかになってきた。娘は緊急医療の仕事に携わりたいと主張するようになった。
「マーケティングも面白いよ」と私。
「興味ない」と娘。
「なぜ? 向いているのになぁ」
「だって、マーケティングは人を救わないもの」

渡米、学業そして起業。

私たちが渡米したのは1999年9月のこと。それまで11年勤めていた広告会社を休職し、家族でアメリカに渡った。何かを深く計画していったわけではないが、強い信念はあった。「人生は一度きり。挑戦あるのみ」。妻と私は30代半ばで、娘は4歳になっていた。そして、それは私たち家族にとって長い冒険旅行の始まりとなった。

99年といえば、インターネットバブルがはじけた年である。それまでテレビコマーシャルを使ってブランドのストーリーテリングをやってきた私にとっては、 象徴的な年となった。

もうインターネットは終わりだ、と豪語している変化を怖れる人たちと、それまでの広告をトラディショナルな活動と言い切るデジタルエイジに二分された。どちらが時代遅れとなるか、それは火を見るより明らかだった。

トラディショナルとデジタルクリエイティブのインテグレーションが近い将来、必要になると考えた私は、大学のエクステンションで、デジタルアートの勉強を始めることにした。そして、2001年、家族と共に米国に残ることを決意。仕事のあてもなく、迷いがなかったとは言えないが、ある偶然の出来事が私の決断を後押ししてくれることになる。

退職届を握りしめ、東京へと向かう機内でのこと。エコノミーシートのひとつ席を挟んで隣り合わせたビジネスマンと話す機会に恵まれた。彼は、単身、米国に自社製品を売り込みに来たと言う。私たちは窮屈な機内の中で、時間を忘れて将来の夢を語り合うこととなった。私は会社を辞める不安を忘れ、いつしか挑戦者の話に夢中になっていた。挑戦者を助ける挑戦者、それも悪くないなと思い始めていた。

02年には、カリフォルニアのアパートの一室で妻と共に起業。社名をワイズアンドパートナーズとした。ふたりのYをとって複数形の「Ys」。同音の「Wise」という言葉には賢者という意味があり、米国の友人にも好評だった。

起業するからには、アメリカのメインストリームに挑戦する、夢と野心をもったニッポンブランドをサポートしたい。米国の日系市場やアジア市場では夢が小さ過ぎる。だから、メインストリームのプロの「Partners」と組んで一歩ずつジェネラルマーケットに入ってゆこうと考えた。そうして、機内で出会った若手実業家が、我が社の最初のクライアントとなった。

日本発のグローバルブランドを支援。

ジャパンオフィス
ジャパンオフィスをオープンした2005年。
Mac G4と共に横浜市元町にて。

05年には横浜市の元町に支社を設立。両国で日本ブランドをサポートするサービスの体勢は整った。こう書くと、まるで私たちのビジネスが成功しているかのように聞こえるかもしれない。しかし、 私たちは当初からあまり求められる存在ではなかった。むしろ逆風の中を進んできたと言える。理由は、ほとんどの日本企業にはグローバル・マーケティングの部署がなく、私たちと共通の言語を持ち合わせていなかったからである。

それは東京の外資系広告会社でグローバルブランドを担当してきた私たちにとっては青天の霹靂であり、完全なニーズの読み違いだったと言えるかもしれない。しかし、そこでおいそれと引き下がるわけにはいかなかった。このままでは、 欧米のマーケティングを学んだアジア諸国の企業に追い抜かれてしまうだろう。そして、10年も経たないうちに、その予測は現実のものとなった。

アメリカのデジタル環境の目覚ましい進歩が、その状況の悪さに拍車をかけている。マーケティングやデジタル部署の担当者が、日本本社から米国に派遣されたという話は、ついぞ聞いたことがない。今や、海外進出の際に、最も大切な部署の一つでもあるにもかかわらず。

たとえば、アメリカのインターネットユーザーのうち、93%の大人がアカウントを持っていると言われるフェィスブックでさえ、本社取締役が理解しないという理由で受け入れられないケースが山とあるのだ。これはどういうことか? 生活者がヒーローであると言われ、傾聴がバズワードに浮上して久しいこの劇的なマーケティング環境のなかで、それを正しく捉えず、どうして耳を塞ぎ続けるのか? 

アメリカの子供たちは、幼少からiPadに慣れ親しみ、小学一年から学校でフォトショップやアプリを使うようになる。子供たちが手書きで文字が書けなくなってきたということが社会問題にさえなるくらいだ。

ティーンになれば、デジタルツールは子供たちの生活の一部となり、学者は弊害に警鐘を鳴らし、学校ではネットいじめの対策が練られている。私たち高校生の親も、毎週高校から届くメールによって、学校で行われている行事や事件や議論、そして娘の成績を知ることになる。親たちがFacebookコミュ二ティで学校をサポートすることは日常的に行われており、 最近のように銃乱射による学校区での事件があれば、米国中の人々がFacebookやTwitter上でメッセージや募金といったサポートの輪を広げてゆく。

このように善きことも悪しきことも、強烈なスピードでデジタル化が加速しているのである。それにもかかわらず、日本の大多数は市場理解とスピーディな決断を怠っている。 これまで日本人は奥ゆかしく「言わざる」の人種と見なされていたが、最近は「見ざる聞かざる」の集団となってしまったのだろうか。

今日、日本でグローバル化が叫ばれる時でさえ、統計ベースの市場理解やブランド戦略が語られることが少ない。デジタルマーケターとは、ツールやデジタルのプラットフォームを使いこなすプロのことではない。真の意味のマーケティングを標榜するひとつの手段がデジタルにあるということを理解した上で、戦略を構築していかなければならないのである。マーケティングの礎があり、かつデジタルの知見と経験を持ち、海外の市場を熟知しているマーケターの存在が、この先の日本のグローバル市場での成功の鍵を握っていると言っても言い過ぎではない。

マルチカルチュラルなチーム
マルチカルチュラルなチーム

Ys and Partnersは、今年、10月15日に10周年を迎えた。日米のオフィスの仲間は、朝出勤すると全員Skypeにログインし、我々とつながりながらどこからでも仕事をする。国境を越えた自由なチーム編成をしているので、言語、デバイス、クライアントによって、チームが異なるカルチャーを横断してプロジェクトをマネージしていくのは日常茶飯事である。これからは、自分たちの米国での経験と実績を活かし、真のグローバル企業を志すために必要な今日的な市場理解やブランド戦略、そしてブランドのストーリーテリングについて提言していきたいと考えている。

私たち家族の冒険はこれからも続いてゆく。まだまだ安定志向になれないのが、幸いなことである。そして、「マーケティングは人を救う」ことを近い将来、 自分たちの力で実証したいと思っている。

結城喜宣 「アメリカ女子高生デジタルネイティブ日記」バックナンバー