6月の「宣伝会議」の特集、「伝わる話はストーリー」ではコンテクスト(文脈)マーケティングがテーマでいくつか事例も紹介されていた。最近はコンテクストという言葉を見かけるようになったが、もともとコミュニケーションには背景や状況などの文脈が欠かせない。なぜこのような言葉がいまさら使われているのか疑問に思う。

記事を読む限り、特集のタイトルになっている「物語(ストーリー)」という言葉をコンテクストとして捉えるのは無理がある。物語はたしかにひとつの文脈の中で成立するが、文脈にストーリーが必要なわけではない。いくつかの論者のなかで福田氏の解説のほうが「物語とコンテクスト」を分けてはいるものの、今度は説明にあるコンテクストとコードの区別がわからない。(コードとは暗号を解釈する際によく使う言葉で、意味を解釈する規範となる辞書のようなもの)

コミュニケーション論からみて物語を読むには、コンテクストとコードの両方が必要だ。これらは並列に語られるものではない。いずれにせよ、明確な定義がなくこれらの言葉を使っていると、何かわかったようなわからないような印象しか残らない。

セビル氏の海外のケースの紹介では、物語という言葉はあまり出てこない。むしろこちらのほうがコンテクストの一般的な意味だろう。コンテクストとは言語的にいえば近接性であり、要は「Where, When, How」という状況を指す。つまり文脈とは、ある商品やサービスが消費される状況や関心の「近くに」置かれる。マラソンの番組でランニングシューズが紹介されたり、ドラマで主人公たちが使用していた車がCMで紹介されたりするのがコンテクチュアル・アドなのだ。これが容易にコンテンツ連動のバナーに解釈されていくのは自然である。

物語という意味で、電通や福本氏が述べているのは、コンテクストではなく、物語という構造についてである。彼らが例として上げる「対立」「欠乏」のような概念は、とりたてて新しい考え方ではなく60年代に流行った構造主義をもとにした物語論における典型的なテーマである。

グレマス
によれば共同体や社会において「物語」とは世界と人間との関係を表し、それに対する調和として機能する。マーケティングで物語を活用するというのは、「ダビデとゴリアテ」や「V字回復」のように、よく語られる物語をブランドや状況に当てはめることで、単純な商業的意味を脱して、社会や消費者に受け入れられることを目指している。

コンテクストにせよ、物語にせよ、いまマーケティングで使われいる言葉はなんだか古くさい文化論ばかりだ。もちろんそれが導入される「文脈」こそが違っているというべきだろう。たとえばデジタルテクノロジーはテレビのような媒体ではコスト的に見合わなかったコンテクチュアル・アドを復活させた。(セビル)そして広告業界が求めているのは「かつては技術的に不可能だったことが新しく再生される」という「物語」なのだ。