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コラム

好奇心とクリエイティビティを引き出す「伝説の授業」採集

13時間目:マ、ツ、チの3文字で都鳥を描く?北斎の門人たちへの教え方

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【前回コラム】「12時間目:スイスのビジネススクールで、大縄跳びを10回跳ぶ。」はこちら

イラスト:萩原ゆか

今回はアート。絵の授業。先生は、それはもう本当に世界的に有名な巨人だが、どなたなのかご紹介する前に、実習の時間にしたい。まずは紙と筆(鉛筆でもペンでもOK)のご用意を。

先生ご指定の最初のモチーフは…、「都鳥」。

ではどうぞ!と言ってもいきなり描くのは難しいと思うので、先生からこんなアドバイスをいただいている。

「都鳥は『マッチとかくなり』」
カタカナの「マ」「ツ」「チ」を組み合わせて配置しましょう、下の絵みたいに、とのこと。

尻尾がマ、目が横に倒して配置したツ、くちばしの部分がチになってます。
(『略画早押南 後編』より © The Trustees of the British Museum)

では次。2つ目のモチーフは「水の流れ」。こちらも先生からアドバイスがあり。
「かくのごとく つのじをくづすべし」つの字を崩して、下のように描いてみましょう、とのこと。

ひらがなの「つ」を重ねて描くと…、水の流れに。
(『略画早押南 後編』より © The Trustees of the British Museum)

できました!?すごいでしょう、この描き方。

このことを教えてもらったのは、2014年、日経本社ビル。日経アカデミアという連続講座に実はこっそり通ったことがあって。テーマは「北斎」。

「北斎は良い教師でもあり、楽しく教えるのがうまかった」との一言をすごくよく覚えていて、例えばで教えてもらったのが、文字で描く都鳥と水の流れ。

つまり。先ほどからの手ほどきの先生は「葛飾北斎」だったのだ。

キャラクターの絵描き歌はやったことあるけど(ドラえもんとか)、川や鳥や森羅万象も、文字だけでこんな風に描けるなんて。面白すぎる。これはまさしく200年前の伝説の授業ではないか!

この真相を知るべく今回は、浮世絵専門の太田記念美術館にお邪魔。主席学芸員・日野原健司さんに教えてもらった、北斎の教育の、根掘り葉掘りレポートをお届けする。

原宿にある太田記念美術館にて。SNSの運用がうまいということでも話題だが、日野原さんはまさにその”中の人”。

倉成「北斎さんの教え方に興味を持って色々調べていたところ、葛飾北斎伝(岩波文庫)の中で、『門人は多いが、自分で教えるのは好きではなく、手取り足取りはやらなかったが、名手をたくさん生み出した』という箇所を見つけまして。

かなり余白のある望ましいやり方だなと思ったのですが、実際、どうやって教えていたんでしょうか?」

日野原「まず、浮世絵師になろうとしたときには、大体10代半ばから後半の年齢で、浮世絵師のもとに入門して、丁稚奉公的に教わる、というのが一般的なんですね。

最初は、師匠が渡した手本の『模写』から始まります。師匠の完成作であったり版画であったり、スケッチとか『まあこれ見てとりあえずそっくりに写せ』ということで、筆の使い方をひたすら覚えていくのが基本的な教わり方。

それで段々絵がうまいなと判断されると、背景とか着物の柄とか師匠が描いた絵の一部から任されて、順調に才能が認められると20歳前半くらいに、ちっちゃな浮世絵版画を単独でとか、絵本の挿絵を部分的に描いてみるか?という感じで、徐々に独り立ちしていく。これが大雑把な共通の教え方だと思います」

「なるほど」

「じゃあ、北斎がどういう風に教えたかというと。はっきりした記録というのは残っていなくて、北斎の知名度が上がった40代くらいから教わりたい人が徐々に増えてきたんだと思います。

そんなに懇切丁寧に弟子の面倒を見て教えるような性格ではなくて、絵手本渡して、描かせて、簡単にちょっと修正を指示したくらいで。まあ広い意味では、浮世絵師本来のやり方と共通だと思うんですよ。まずはしっかりと模写できるようになりなさいと。

ただ、北斎が教え方として、異なる点を挙げるとするならば」

「ハイ。待ってました」

「絵手本と呼ばれる、『北斎漫画』を含めた絵本の類をかなりの数刊行している、というところが、他の絵師と比べて特異なところなんです。

でも…、ちょっと難しいところがあって。

その絵手本にも系統が2種類あり。文字を使って歌に合わせて、絵描き歌のような感じで書いていけばこの通りになるんですよというもの(難しい名前だが一応ご紹介しておくと『己痴群夢多字画尽(おのがばかむらむだじえづくし)』)や、コンパスや定規を使って描けばこんな風にかけますよと絵を教える『略画早指南』という絵本が1種類目の系統。

これは、弟子に教える絵手本としては、特殊な部類に入ると思うんですね、私から見ると。プロを育てるための技術としてこれが使われたか?と考えると、そうじゃないだろうな、というところがあるんですよ。本気でこれで絵を学べとは思ってないだろうな、どちらかというと余興で絵を描く人たちのために作ってる要素が強いんじゃないか、と。

実際にこちらの絵描き歌で描ける絵手本は娯楽向けの小さいサイズです。そして、『略画早指南』にしても本当に真似して描けるのかなこれ、って話なんですよね。

ヘビなんか、これですよ」

コンパスや定規を使って描き方を教える『略画早指南』より。右は瓢箪から馬が出る絵の描き方。左が文中で話題にしている蛇の描き方。
© The Trustees of the British Museum

「絵の横に『ぶんまわしいつしきにて へびをかく法也 まるきわりにて ながきものをかくにハ これにてかんべんすべし』と説明が書いてあるんですけど、ちょっとあきらめちゃってるんですよ。これ、描く方もこのヘビだったら完成図の方を見て書いたほうが早いですよね」

「ははは。確かに、下絵から本番への飛躍がかなりありますね」

「ただ、北斎の狙いとしては、あらゆるものを丸や四角、直線に分解する面白さ、っていうのがあって、そこを笑いながら見て欲しいというのが根本的なコンセプトだと思うんですよね。一般の人に向けてライブパフォーマンス的にやってた可能性もある」

「僕はその一般側なので、楽しくはありますが」

「もう1種類の絵手本の系統というのが、『北斎漫画』をスターとした絵手本。こちらがプロ向け。

いろんな画題があり、版元が一冊の本にして、まさに弟子たちの手本とした。ちゃんと描いてるんですよ、人物とか動物とか風景とか、いろんなものの動きとかですね。こっちの方が北斎の浮世絵師としての教育方法としては、王道なんですね。

ただ問題だったのが。現代のように複写コピーがないので、絵師たちにとって師匠を始め代々受け継いでる他の偉い人のスケッチとか、過去の絵のストックを持ってるって言うことが1つの財産なんですね。なので、それを公表するということ自体への抵抗感は絵師たちの間にあったと思いますよ。

狩野派のような幕府に仕えるような流派がまさにそうで。伝統的な年中行事や装束とかを描けるということが1つの特権であるし、みだりに外部に公表しない。

そんな情報源を惜しげもなく、『北斎漫画』を出した50代以降、バーっと異常なほど出していくんですよ。それは絵師だけじゃなくて、職人さん向けでもある。例えば、キセルとか櫛とかの、持ち手のところに使うデザインを発表している。職人さんたちはそれをネタ本として工芸品を作るんですね。」

「現代で言えば、ネットのイラスト屋的な感じですね」

「そういうのが欲しいという人がたくさんいて売れるもんですから、版元もたくさん出していく。

北斎も弟子たちに丁寧に教える人じゃないので『お前ら俺が書いた絵を見て勉強しろ。その代わりたくさん出すから』ということでバンバン意図的に出してたってこともあるでしょう。

そうやってフリーの素材がどんどん拡散していく、という要素が北斎の絵手本にあったんだろうなと」

「そういう意味でも革命児だったんですね」

「そこでもちょっと不思議なことがあって。通常ですね、セミプロ的な町絵師に求められるのは、ありとあらゆるものを描くことじゃなくて、ちょっとおめでたい絵とか花とか鳥とか、定番の画題って限られてるんですよ。

でも『北斎漫画』見てると、こんな絵いる?真似したとしていつどこで使うの?そういうのがたくさん含まれていて。花とか鳥とかは分かりますけど、尻相撲とか足相撲とかしてるような人の様子とか。ふざけた絵とか本当にふざけてますからね。

1巻はまだ系統だった絵手本にしようという意識があったみたいで、人物と風景と動物とバランスよく描いているんですが、段々回を追うごとに好きなもの描いてるので、順番に真似していけば絵が上達するような、段階式教科書ではないんですよ。

体系的ではない。ほんとにいろんなもの書きたかったんだろうな、と。とりあえず、自分にはすごい書きたいものがあって、どんどん描いて」

『伝神開手 北斎漫画』十一編より。尻相撲や足相撲のページ。
© The Trustees of the British Museum

「そこが北斎の教育の特徴が出てくるところで。当時浮世絵界の一大派閥だった歌川派だと、彼らの絵って、おんなじ歌川派だな、と、みんな似ているところがあるんですよ。

一方、北斎は、手取り足取りまとめて教える画塾みたいにやってないので、弟子たちがそれぞれ好きにタッチを学んで、自由に描いてる。北斎そっくりに描く人もいれば、表現が違ったタイプもいる。

そういう意味では、弟子たちは独創的に個々の才能に合わせて成長してる感じはしますよね」

「教える立場の逆で。北斎自身はどう学んで行ったんでしょうか」

「北斎は、最初10代半ば浮世絵の板木を彫る彫師の修行をしていたのですが、19歳の時に彫師をやめ、浮世絵師に転職することを決意。勝川春章という浮世絵師に入門して翌年にはデビューという経緯ですが、そこではおそらく師匠の絵の模写から始まったと考えるのが妥当でしょうね。

で、比較的才能があるなってことで、早い段階から独り立ちして描き続けていましたけれども、30代半ばに勝川派から離脱して、狩野派や土佐派などの浮世絵以外から学んで独自の作風を模索をして行ったと言われていますが、はっきりどういう形で学んだかはよくわからないんです」

「狩野派から学んだのは確かなんですか?」

「浮世絵って歌舞伎者とか女性とか描くものが現代のものがメインなので、伝統的な画題を描こうとすると、狩野派的な手法は勉強せざるを得ないわけです。

ただ、弟子入りして直接誰かから手ほどきを受けたのではなく、絵手本の類を見せてもらったり模写させてもらったりして、独学で取り入れて学んだ可能性が高いと推測します」

「明らかに学んでるなっていうのは、どういう点でわかるんですか?」

「狩野派でいえば、まず題材ですね。歴史上の人物とか中国の人物、風景にしても中国の山水画的な風景とか。そして、狩野派の場合は直筆の肉筆画ですので、自然と筆の強弱が、タッチに現れてくる。浮世絵は均等な線なので、その線の強弱の入れ方に狩野派風の要素があったりとか。

土佐派っていうのは、伝統的な宮廷行事や『源氏物語』の世界などを描写することが多いので、そういう古典的な題材を描いていると、吸収してるなとわかる。

でも大体、吸収したてはわかりやすいけど、だんだん年取ると自分のものになっちゃって、宮廷貴族の世界を描いていても北斎独特のタッチになってきますね」

「弟子入りして技を吸収、じゃないんですね?」

「誰かに直接手ほどきを受けたんじゃなくて、どんどん自分に関心あるものを追求していったんだろうなと思いますね。

西洋画にしても、銅版画をそのまま模写した木版画は目に見えて技法をトレースした感じですが、時代とともにこなれていって、西洋絵画の透視図法から影響受けてるんだろうけど北斎ならではのものになっていく」

「こういうのが、モロ影響がわかる作品ですか?」

「おしをくりはとうつうせんのづ」1804-05頃。押送波濤通船の図 北斎描く とアルファベットのような形態で横に文字を倒して書いてある。東京国立博物館所蔵。
(出典:国立博物館所蔵品統合検索システム

「そうですね。周囲の額縁のようなものも西洋の影響ですし、遠近感とか波の影の付け方とかも輪郭線をぼやかしているので、西洋版画風を狙っているんですけれども、徐々に変化して、富嶽三十六景に繋がっていく」

「これと富嶽三十六景まではどれくらい時間が空いてるんですか?」

「30年経っています」

「この作品の存在って、展覧会に行ったことない人は普通知らないですよね。これがなかったら、富嶽シリーズはまた違うものになっていたかも?」

「富嶽シリーズそのものが生まれなかったかもしれません」

「こういうのやる気起きますよね。現在の仕事の没ネタが、30年後に化ける可能性があるってことですからね」

「あと北斎は我々が思ってる以上の模写とか修練をしているはずなんです、表に出てないだけで。動物にしろ人間にしろ。特徴的な波の表現も、実際には異様にスケッチしてるはずなんですよ。『北斎漫画』も、普段の修練のスケッチがあまりにももったいないから1冊にまとめませんか?って感じじゃなかったかと。

普段から相当の量を描いている積み重ね。そして、いろんなものを積極的に吸収する姿勢。過去の絵を単純に学んで似たものを描くだけじゃなく、自分の身の回りのものなんでも絵にしたい、という意識が強かったのかなと。

過去の有名な絵師も先生であり、身の回りの人物や動物や小道具も含めて、自分の師匠である。そして、手取り足取り教えてもらわなくても、それらを模写することによって見えてくる。

ある程度模写する力がついてくれば、つまり基礎ができていれば、やり方教わらなくても本質は学べるっていうことなんじゃないかなと」

独学の師匠。北斎さんのことはずっとそう思って、勝手にお慕い申し上げてきた。その独学とは、あらゆる流派に入門してそれをミックスして独自の画風を築いた、という意味で認識していたが、まさか「弟子入りせずに」だったとは。

しかし「教えてもらわない」からこそ、自分がピンと来たエッセンスを、自由に自分のものにしてしまえる。北斎師匠はきっと、計画的に、そうしてきたのではないか。だからこそ、弟子たちにも丁寧に指導したくなかったのでは?効率的に教えてしまう昨今の教育の風潮とは真逆だ。

北斎さんのことは今日から、独学の師匠改め、「独学の大師匠!」と呼ぶことにしたいと思う。

「あ、あと最後に。北斎の学習ということでは、もう1つ言える大事なことがあって。」

「なんですか?」

「『長生きは大事』ってことですね。

有名な話ですけど、富嶽三十六景が制作されたのは北斎が70歳過ぎてからなんですよ。広重とか国芳とかは60代で亡くなっているので、70代過ぎてまで生きて、さらに新作を発表している人は珍しい。

北斎も60代で脳卒中になったんですが、元に戻ったらしくて。その結果、過去の作品をさらに発展させてベストの作品を発表して、世界的に評価される絵師になった。

つまり、死なずに長生きして作り続けるというのが絵師として一番大事、ということですよね」

まずは自分が興味あることから自分で吸収する「超独学」を。そして、その得たものを発展させられるようにできるだけ「長生き」を。

以上、歴史に残るいい仕事をするための秘密の方法を、北斎大師匠と日野原さんにお教えいただきました。