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コラム

監督はCMの夢をみる

広告業界への就職を決めた同級生の一言と「空白の1日事件」

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【前回はこちら】ビートルズになりたかった僕が東京でデザインを学んだ理由

「なんで僕が電通を受けなきゃならないんだよ!」

前回は、僕が大学でデザインを学ぶまでについて紹介しました。今から40年ほど前の話です。

同じクラスのロック仲間である中山昌士くん、小林豊くん、そして栗原正己くんと「ヘルベチカデザイングループ」というチームを作って活動していました。そんなある日、同級生のIくんがヘルベチカのアジトを訪ねてきます。

Iくん曰く「いやあぼく、電通を受けるんですけど、信也さんたちの新聞広告の作品、貸してもらえませんかねえ」。!!?? 評判が高かった僕らの作品をIくんの作品として面接に持っていこうとしてたんです。いくらなんでもそれはあかんやろ、と思いましたが、無下に断るのも角が立つんで僕はちょっとした嘘をついたんです。

「ごめんねIくん、実はね、中山くんが電通受けるんや」

さすがのIくんも「それは仕方ないですね」と諦めて帰って行きました。ただ、受ける、と言った以上は形だけでも受けとかんとかっこつきません。「ということで中山くん、形だけでええから電通受けてくれへん?」。これには普段温厚な中山くんも激昂しました。「いやだよ!なんで僕が電通を受けなきゃならないんだよ!」。僕は困ってしまって「そこをなんとか」としか言えません。

さんざん言い合った挙句、中山くんがある提案をしてきました。「じゃ受けるだけ受ける。その代わり信也もどこか受けろ!それが条件!」。えーっ!?僕が!?

「デザイン会社を紹介するので博報堂は辞退しなさい」

時は突然さかのぼりますが、僕の父は大学卒業後福岡銀行に入行し、僕が生まれた昭和34(1959)年に大阪支店勤務となります。その後大学時代の友達の就職の世話をする中、博報堂という会社とご縁ができ、昭和39(1964)年に自分も博報堂に転職します。

といっても銀行員出身ですから制作などのクリエイティブ職ではなく媒体です。当時テレビが「タイム」全盛の頃、転職組に充てがわれたのが「スポット」という新しい商品でした。その後この「スポット」が急成長し、父は博報堂の大阪本部長から取締役にまで出世します。ので、僕は「博報堂」という会社は子供の頃から知ってました。

そんな理由で「信也もどこか受けろ!」と言われた僕はほな博報堂を受ける、と中山くんに言いました。この騒ぎの中、小林くんも「じゃ俺は資生堂を受けてみる」となり、3人のロック少年がデザイナー職での就活をすることになったのです。4人目のロック少年栗原くんは前述の通り、就活はせずに音楽の道を突き進みました。

さて、僕たちに作品を借りようとしたIくんは実力で見事に電通に受かりました。なんと中山くんも電通に受かって中部支社の配属となりました。さらに小林くんも資生堂に受かり、あの「資生堂書体」を継承するタイポグラファーとして活躍していきました。

問題は僕です。僕は博報堂の面接をとんとん拍子で進んでいきます。実技試験は「カラークリップ」でした。この課題について僕は各色ごとにお話を作り、何話かの物語集というデザイナーにしてはケッタイなものを出しました。あとは役員面接、というところまで行った時に父から電話が入ったんです。

「信也くんうちを受けてるそうじゃないか。だめだよ」

そういえば父にはなんの相談もしていませんでした。試験が進むうちにバレたみたいです。本人が嫌がったんでしょうけど、肉親は入れられないというルールがあったとも聞きます。いずれにしても熱烈に博報堂に入りたい!とは思ってなかったので父からの「どこか博報堂と仕事しているデザイン会社を紹介するので博報堂は辞退しなさい」という申し出をあっさり受けて、博報堂に行って辞退を申し出ることになりました。

これはやはりよろしくなかったみたいで、翌年博報堂は武蔵美の学生は採らなかった、と聞きました。そのせいで博報堂に入れなかった、と後輩が文句を言ってきたのです。その後輩は結局博報堂を諦め、ゲームデザイナーとして名前を残すくらいの活躍をしたので、結果オーライやん!とはやっぱり言えません。すんませんでした。

「優秀な若者にうちみたいな会社は勿体ない」

ほんで、博報堂を辞退したのはええんですけど、どこかデザイン会社に、という父の思いと現場の思いは違ってました。それまで面接をしてくださった博報堂のクリエイティブの皆さんの共通見解は「中島くんはデザインやってもダメだよ」ということでした。考えてみれば一年上にあの大貫卓也さんがいる博報堂に入っても勝ち目がないことは今思えば当然のことでした。

博報堂の面接をしてくださったクリエイターの皆様は口を揃えて「中島くんはテレビに進んだ方がいい」と指摘してくださいました。テレビ?なんのことかわかりませんでした。僕は博報堂の人事の方と社用車のクラウンに乗って「東北新社」という、サンダーバードのプラモデルに書いてあった会社に向かいました。

入社時の東北新社本社ビル。当時から赤坂に本社を構えている

 

赤坂、青山通り沿いに面した会社。その7階に連れていかれました。7階の薄暗い障子の光を入れた部屋には東北新社創業者の植村伴次郎さんが。開口一番「何を考えているんですか!」と博報堂人事の方を一喝します。

「博報堂に入れるような優秀な若者をうちみたいな会社は勿体ない!電通に入ってもらえばいいじゃないですか!」

博報堂人事の方は困ったと思います。その夜、行動力が売りの植村さんは当時の電通の社長の田丸秀治さんにお会いして「優秀な若者を1人預かってもらえないか」と談判をしたらしいのです。それに田丸さんはOKをした、と。その夜僕は電通に内定したわけです。

そのことを聞いた博報堂さんは翌朝慌てて役員の方まで総出で植村さんの元を訪ねます。「ちょっとそれは勘弁してください」。色々すったもんだのあげく、中島信也は東北新社に見習い社員として入れてもらうことになりました。江川の空白の1日事件のような訳のわからない事件でした。もちろんこの顛末を知ったのは入社後10年くらい経ってからです。

左はディレクターのイロハを教わった内池望博師匠。右は弟子時代の僕

次回は10月17日掲載)