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「本場イタリアより美味しい」と話題沸騰。三重県発の感動パスタ〜大手メーカー勤務から星付きレストランを経て開業。辿りついた「幸せの食卓」〜

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「本記事では、宣伝会議「編集・ライター養成講座」42期修了生の土橋水菜子さんの卒業制作(2021年8月29日提出)を紹介します。

一流バイヤーをうならせる「パスタソース」

「日本で一番クオリティが高いですよ、ここのパスタソースは」

大手百貨店の食品バイヤーがそう口にするのは、三重県松阪市にあるテイクアウト専門店『PASTA SAUCE KITCHEN(パスタソースキッチン)』。同市内にある直売所とECサイト、全国の百貨店で手づくりのパスタソースやイタリア惣菜を販売しているパスタソースメーカーだ。

主力商品のパスタソースは『カルボナーラ』や『ペスカトーレ』といったイタリア料理の定番メニューのほか、地域の特産品を使用した『松阪牛だけのボロネーゼ』など、バラエティに富む。ソースと具材は冷凍された状態で販売されており、それに合うパスタと塩もあわせて購入することができる。

直売所にも飲食スペースはなく、客は商品を購入後、自宅で調理することになる。調理と言ってもソースと具材を解凍し、茹でたパスタとあえるだけでフライパンを使う必要もない。少ない工数で、家にいながら本場のイタリア料理と遜色ないパスタを味わうことができるのがこの商品の最大の特徴だ。

パスタセット『ペスト・ジェノベーゼ』の調理後。手軽に調理できるため、客からは「これなら私にもできる」と喜びの声が届く

調理前の『ペスト・ジェノベーゼ』。ソースと具材のみでの購入も可能だが、選び抜かれたパスタとソースの組み合わせは絶品

パスタソースの価格帯は多くが1,000円前後であるから、決して安いとは言えない。ところが、月初めに販売される旬の食材を使用した限定パスタは、ECサイトで即日完売。毎月パスタを届ける『季節のパスタお届け便(定期便)』はキャンセル待ちが続く。クリスマスなどのイベント時には、人口約16万人の松阪の地に、隣の店まで連なるような行列ができる。直売所の限定商品を求めて、他府県からの来客もしばしばだ。

なぜ、三重県にあるパスタソースメーカーがこれほどまでに知られ、人気なのか。理由はシンプルだ、商品が美味しいからである。

「一番人気の『松阪牛だけのボロネーゼ』は文字通り、肉は松阪牛しか使用していません。二番人気の『ペスト・ジェノベーゼ』は契約農家さんに特別に作ってもらっている朝摘みのバジル、それも雑味が少ないやわらかい葉のみを使用しています。うちは増粘剤や化学調味料はもちろん、保存料などの添加物は一切不使用。素材の持つ味だけでソースを手づくりしています」

そう語るのはパスタソースキッチンの創業者でシェフの石川真二郎氏。三重県で創業した理由は、素材のよさだと話す。

「素材そのものの味を楽しむのがイタリア料理です。三重県はそれにうってつけ。イタリア同様、食材がいいんです。松阪牛という特産品を活かして料理をつくることができるし、海の幸にも恵まれている。ハーブを育てる気候もいい」

パスタソースキッチンは香り高い自家製ハーブをソースに使用しているのも売りのひとつだ。

写真中央の男性が石川シェフ。パスタソースキッチンはリーマン・ショックの時代に三重県で唯一「製造業」という形態で創業した(写真提供:パスタソースキッチン)

食材には、1年のなかで “最もいい旬”があると石川シェフは話す。

「たとえばあさり。あさりは4月中旬から下旬にかけて、水温が15℃を超えると産卵が始まります。その産卵直前のあさりは、貝殻からあふれんばかりに身が詰まっていて、最高に美味しいんです。通常のレストランなら、いい日も悪い日も毎日5kgずつ仕入れないといけません。それをなんとかするのがシェフの腕でもありますが、うちはソースを冷凍して商品化しています。ベストな状態のものだけを仕入れて、お客様に提供することができるんです」

石川シェフは、仲買人が太鼓判を押したタイミングであさりを一斉に仕入れ、その年のボンゴレをつくるのだ。

『ペスト・ジェノベーゼ』に使用されるバジル。バジルは鮮度が命。入荷したその日にすべての葉の検品を行い、すばやくパスタソースに加工する

「テイクアウト専門」はシェフの意外な経歴から

テイクアウトという形態は石川シェフ自身の経験から生まれた。

「実は、シェフになる以前はメーカーで会社勤めをしていました。毎日忙しく、夕食は駅前のラーメン屋。もしくはスーパーやコンビニで購入するような生活が続いていました。もう少しちゃんと食べたいなと思っていたら、同僚の女性も同じ悩みを抱えていて。手軽に美味しいものを購入できる店があればと、ずっと思っていたんです」

石川シェフは、料理人として異色の経歴を持つ。

高校生時代、石川シェフは「起業」という夢を持っていた。名古屋大学へ進み、経営学を学んだ。大学を1年間休学し、在学中に起業も経験した。飲食業と広告業だった。2005年に大学を卒業した後は、キヤノン株式会社へ入社する。

「実際に起業はしましたが、すべてが自己流。自己満足でないビジネスをつくりたいと考えていました。そこで、トップ企業の仕事を学ぼうとキヤノンへの入社を決めました。ただ、最終目標は再び起業すること。自分の中で8年まで、というリミットを設けていました」

バジルの葉は一枚一枚「鼻」で検品する。葉の変色を防ぐため、刃物は使用せず手作業で行う

“修行”のため、キヤノンへ入社した石川シェフ。

「希望は商品企画でしたが、茨城県の工場で現場研修からのスタートでした。ビスを打つなど、生産の仕事です。同期がピカピカの皮靴にスーツで仕事をしているなか、私は鉄板が入った安全靴を履いていましたね。最初に与えられた仕事は、1日中工場内のモップがけ。次は、休みの人が出るたびにポジションの穴埋めをしていました」

そのような状況に「燃える」という石川シェフ。他の人が歩くようなところを常に走って仕事をした。モップがけでも、大きなチリの山をつくって周囲を驚かせた。「根性がある」と評価が上がり、研修期間であるにもかかわらず、どんどん仕事を任されるようになる。1人で2人分の仕事量をこなす日もあった。すると今度は「覚えが早い」と噂が広まり、システムのコーディングなど現場以外の仕事を担当することもあった。

そうして掃除からスタートした仕事は、やがて30〜40人の生産ラインの管轄を任されるまでに至った。入社後わずか1年目のことである。

「その後は3年かけて、会社全体の製造プロセスを学んでいきました。」

生産現場の工数管理部門、生産数を指揮する部門を経て、東京本社へ異動。異動した先では商品の需給計画業務に携わった。

検品を通過したバジル(左)と、はねられたバジル(右)。一見違いはないが、通過した葉はやわらかく、強い香りを放つ

海外赴任のオファーをきっかけに、イタリア料理修行を決意

「ニューヨークへ赴任してくれないか」

ある日、石川シェフにそんなオファーが飛び込んだ。

「行ってみたいとは思いました。ですが、赴任すると5年は帰って来ることはできないかもしれない。起業すると決めていたので、このタイミングで退職の意思を固めました」

そうして石川シェフは2009年に会社を去った。

「食に関する分野でビジネスをつくろうと思っていました。ただこの時点では、シェフになろうと思っていなかったんです。プロデュースやオーナーという立ち位置で、飲食業を企画しようと考えていました」

かねてからイタリアに惹かれていたという石川シェフ。飲食業を立ち上げる前に、イタリアで自ら料理修行を行うことを決意する。

「キヤノンでの経験から、実際に現場を見た人とそうでない人では、同じ仕事をしても目に映る景色が異なると感じていて。シェフを目指すわけではなくても、“飲食の現場”つまりキッチンを経験しなければ、どんなビジネスを始めても絶対にいいものはつくれないと思ったんです」

しかし、石川シェフが決意を固めた矢先、世界に未曾有の危機が訪れる。同年に発生したリーマン・ショックだ。

直売所のショーケースには、彩り豊かなイタリア惣菜が並ぶ。『鶏肉とグリル野菜のハーブバターロースト』、『オレンジとディルの蜂蜜レモンマリネ』など、季節のハーブを使ったさまざまなメニューに目移り必至だ(写真提供:パスタソースキッチン)

だが石川シェフは、その事態に臆することなく日本のレストランで修行の後、同年5月にイタリアに渡った。あてなどまったくなかったという。

厳しいイタリア生活で芽生えた料理に対する情熱

渡伊後、石川シェフはフィレンツェにある語学学校へ通いながら働き口を探した。学校には、ジュエリー職人や靴職人、料理の道を志す者など、多くの夢追い人がいた。

石川シェフは職を求めてレストランを回るが、リーマン・ショックの影響は当然イタリアにもあった。イタリア人が職を失っているなか、わざわざ日本人を雇おうとする店は少ない。

「当時私は28歳でした。同じ日本人のなかには、同い年でも18歳のときから料理の道を志してきた“その道10年選手”がいるわけです。私が大学へ行き会社員として働いている間も、彼らはずっと修行をしていた。もちろん私も、イタリアに来るまでに一生懸命勉強はしていましたが、レストランがどちらを採用するのか、言うまでもありません」

来る日も来る日も、石川シェフはレストランのドアを叩いた。

「学生時代に起業した際、ひと月で1,000軒飛び込み営業をしたことがありました。イタリアの地で50軒、100軒のレストランに嫌われることくらい、平気でしたね」

そして石川シェフはついに職を手にする。フィレンツェの中心地区から5分ほど歩いたところにあるレストランだ。伝統的なイタリア料理を現代風にアレンジすることを得意としていた。

「イタリアのいいところは、『この料理をつくってみろ』と言われて、つくることができればOK。その料理を任せてもらえるんです。日本のように皿を洗って、野菜を洗って、何年か経ってようやく魚にさわれた、のような徒弟制度はありません。ただし、料理をつくることができなければ即刻クビ。実力主義の世界でした」

走る、与えられたポジションの仕事を瞬時に覚える、そして人の2倍働く。キヤノンでの現場経験が活きた瞬間であった。

石川シェフはこの店での経験をバネに、次のレストランへキャリアをつなげる。『ミシュランガイド』で一つ星獲得のレストランでの修行が決まったのだ。前菜からスタートした担当料理は、パスタ、メイン料理、そしてドルチェへと広がり、石川シェフは星付きレストランでも活躍するに至った。

店頭には毎年10 月30 日解禁のVino Novello(ヴィーノ・ノヴェッロ。イタリア語で「新種のワイン」を意味する)も並ぶ。写真はファルネーゼの『News』(写真提供:パスタソースキッチン)

一見、華々しくイタリア修行を終えた石川シェフ。しかし、滞在中は楽しいことよりむしろ、つらいことばかりであったと話す。

「イタリア生活は想像以上に過酷でした。観光で訪れるようはイメージとは全然違う。2軒目のレストランで働く際、プーリア州で暮らしていました。そこは、日本人の私が道を歩いているだけで『えっ』と驚かれるような場所でした」

当然、差別もあった。

「その上、生活しているだけでお金もどんどんなくなっていく。心細いですし、こわい、と感じました。勤めているレストランをクビになったら、即刻日本へ帰らないといけない状態でしたので、懸命に働いていましたね。とにかく生き延びるために」

時には、言葉がうまく通じずアパートの契約が終了し、スラム街のホコリまみれの一室で暮らすこともあった。そのようななか、石川シェフの支えになったのは「料理」であった。

「はじめは『現場を知ろう』という気持ち程度だった料理に、どんどんのめり込んでいくんです。見るもの、食べるものすべてが新しいですし、知識やできることが増えていくのが、本当に楽しかった」

仕事や休息の時間以外はすべて、料理の勉強に費やした。

思い出の食卓

苦しいイタリア生活で、忘れられない出来事がある。

友人4人でフィレンツェの郊外に暮らす、老夫婦のもとを訪れたときのことだ。そこで振舞われた食事と、食卓の風景に石川シェフは衝撃を受ける。

「天気がいい日でした。庭でとれたトマトと魚、ニンニクやハーブを使って『カッチュッコ』という伝統的な煮込み料理をつくってくれて。それがとても美味しかった。驚きましたね。シンプルな食材でこんなに美味しい料理が作れるのかということと、ハーブの力。魚の質はよくなかったのですが、食材をうまく使えば臭みさえも消せる、素材の持つ力強さを知った瞬間です」

これは、現地の人が家庭料理をつくり、食卓を囲むのを初めて見たタイミングでもあった。

「おしゃべりをしながら、食事を心から楽しんでいる様子がほほえましくて。イタリアは毎回食事にかける時間が長いんです」

石川シェフは笑顔で続ける。

「普段、やんちゃなことをしている男の子でも、食事の時間にはきっちり帰ってくるんですよ。レストランで出されるきれいな料理ももちろんイタリア料理ですが、こういった食卓の風景も含めて“イタリア料理”なんだと感じました」

「この食卓をまるごと日本へ届けたい」石川シェフは次第にそう思うようになった。

パスタソースキッチン創業

日本へ帰国後も、思い出すのはイタリアの食卓の風景であった。イタリアでの出来事と「手軽に美味しいものを購入したい」という会社員時代の経験から、2012年、テイクアウト専門のメーカーを立ち上げる。

「イタリアで修行していた時代、本格的なパスタを気軽に食べることができました。日本で同じクオリティのものを探すと、敷居が高いお店のコース料理でしか食べられないのが気になっていて」

そこで石川シェフは、自宅で気軽に本場の味を楽しむことができるパスタソースの開発を決意する。『パスタソースキッチン』の誕生だ。

キッチンのようす。「『美味しければお客様に手間をかけさせていい』は違う」と石川シェフはいう。「みんな忙しいから、調理は簡単に、食事はゆっくり楽しんでほしい」

「まずは商品の試作に取り掛かりました。イタリアにいた間、稼ぎという稼ぎがなかったので、食材費調達のために板金屋でアルバイトもしていました。現在の直営店の改装も自分で行いながら、毎日朝の9時から深夜の1時まで働いていましたね」

しかし、すぐには納得できる商品はできなかった。

「大前提として、美味しい料理をそのまま冷凍し、解凍しても元の美味しさを再現することはできません。そして、なんとか一食分を美味しくつくり上げたとしても、それを10食、50食と量産できるようにするのが難しい。単純に鍋を10倍にするだけではうまくいきません。鍋を大きくしても、火力には限界があるので、通常なら10分程度で水分が飛ぶ食材が、1時間以上かかってしまう。結果、『豚のグリル』が『煮物』のような味になってしまうんです」

塩は0.1g 単位で計量。冷凍・解凍時間も調理のうち。時間の経過によって味が立つよう仕掛けてあるという

コスト重視の商品なら、火が通ればそれでいいのかもしれない。だが、石川シェフが目指すクオリティは違う。

そこでこのような方法を考案した。まずは豚を10分煮込んでから取り出し、一度水分を飛ばす。袋に詰めて冷凍するまでの時間を算出し、味の馴染みや、塩分濃度を調整する。最終段階で再びソースを合わせる。手間はかかるが、グリル独特の「焼き」の味も損なわれない。

さらに難しいのは、タコなどの生鮮食品だ。日によって水分量が変わる生鮮食品は、調理方法を誤ると、ソース全体のバランスを崩しかねない。洗い上げたタコを一度冷凍し、凍ったまま60℃の湯で2時間ほど茹でる。タコの水分が25から30%ほど抜けたら、タコを5㎜にカットし、味を馴染ませるためにソースと合わせる。タコが固くならない温度で2分ほど加熱したら、一度氷水で冷やす。そして再びタコとソースをザルで分ける……。

これらはすべて石川シェフが編み出した“美味しい一食分を安定して量産する”ためのレシピだ。
ある月は毎日豚肉を食べ続け、その翌月はあさり、その次はタコと、石川シェフは試作と検証を繰り返した。

スーシェフ(2 番手シェフ)の木崎美絵氏。「当店はみんなが“本気”。今日いいものができても、明日はさらにいいものができるかもしれない。本当にベストかを常に考えます」

創業後2年間はソースの開発や店の改装に時間を費やした。1年のうち350日以上働いても、年間所得が9万円の年もあった。「親が泣く以前に私が泣いていた。でも、食べるものにはまったく困らなかった」と石川シェフは明るく話すが、周囲の風当たりは強かった。

「冷凍なんかしないで“普通に”レストランをすればいいのに」
「開発って、2年もいったい何を開発しているの」

知人のなかにはそうあしらう者もいた。当時はテイクアウト専門店という前列があまりなかったのも一因だ。

石川シェフ自身が調理を行うことに対しても、厳しい言葉が投げかけられた。

「飲食の企画業を行うんじゃなかったのか」
「18歳から料理を学んでいる人と比べたら、お前はずいぶん負けるんだから」

親族からも諭されることがあったという。

「とにかくいいものをつくる。あの“食卓”を届ける。あとはすべてを犠牲にする」そうした思いを胸に、石川シェフは開発を続けた。

やがて、地道な努力が功をなす。創業当時は2種のみであったパスタソースは次第にバリエーションが増え、毎月新作パスタを発表できるようになった。

その後、パスタソースキッチンの躍進は止まらない。ある年は『ふるさと納税』で、松阪市内1位に輝いた。地元百貨店での催事出店を機に、大手百貨店から続々と声がかかるようになった。年間36会場を回る年もあった。それと比例するように客もどんどんついた。

新メニューの最終調整段階。熟練スタッフ、新入りスタッフすべての意見に耳を傾け、石川シェフが決断を下す

最後まで微調整を続ける。繊細な風味を感じ取るために、試作当日は味の強い食事を避けるのはもちろん、“舌の管理”も徹底している。たとえば歯磨き粉も、清涼成分が含まれるようなものは使用しない

完成した『特産松阪牛の煮込まない煮込みパスタ』。一頭一頭大切に育てられた特産松阪牛に、肉の旨味をぎゅっと吸い込むことができる生パスタを合わせた一品。乾麺ではなく生パスタを採用したのは、パスタソースキッチン初めての試み

現在では、石川シェフ考案のレシピは60種以上にのぼる。

「飲食業って小さいキッチンのなかで、行っていることは製造業と一緒なんです」

キヤノン時代に培ってきた理論的な工程管理や検証技術。料理人として体感した、本場イタリアのレストランでの修行経験。そして商品に対する並ならぬ情熱をもってパスタソースキッチンは完成した。

どのような局面でも歩みを止めることがなかった石川シェフ。

「例えば、子どもができたら生活のスタイルは変わるでしょうし、そうでなくても、みなさん毎日忙しいと思います。ですが、週末だけでも大切な人と “食卓”を囲んでみてください。つらいことがあっても、顔を合わせて美味しい料理を食べれば、たいていのことはうまくいくんです」

石川シェフは続ける。

「でも、丁寧な食事を毎回用意するのは難しい。だからこそ、私たちがいるんです。パスタソースの世界で腰を据えてやっていく、帰国後の超貧乏時代に腹をくくりました。これからもお客様の食卓が盛り上がるきっかけになる商品を届けていきたい。日本一、いや、世界一のメーカーを目指したいですね」

夢を叶える条件に時代や前例は関係ない。情熱と、あたたかな食卓があれば。夢を持つ人、本気で仕事に向き合うすべての人に知ってもらいたい。

■『パスタソースキッチン』
住所:三重県松阪市嬉野権現前町849-1
TEL:0598-30-5510
定休日:火・水・木曜日
営業時間:11:00-19:00
公式HP:https://web.pastasaucekitchen.com/
*写真は2021年取材時点

土橋水菜子(つちはしみなこ)

1990年、大阪市生まれ。2013年、関西大学社会学部卒。同年、印刷会社に就職。編集部門にて約5年勤務の後、2018年に編集プロダクション、2019年に広告会社を経て、2021年よりフリーに。取材記事をはじめ、広告や広報物、書籍などを手がける。

取材時、シェフが見せてくださった「メモ」が印象に残っています。
そのメモとは、新メニューの開発記録を綴ったものです。A4ほどの大きさの紙に、その日使用した材料(もちろん0.1g単位)や調理法、シェフの気づきが手書きのイラストとともにびっしりと書かれていました。

シェフの“試行錯誤の履歴”ともいえるメモは、ひとつのメニューに対して何十枚もの紙が重なっていました。多いときには本一冊分相当にまで到達するそうです。
「こんなにも突き詰められた料理が、美味しくないわけがない」分厚い紙の束を見た瞬間、胸が熱くなったことを覚えています。

お店の魅力はもちろん、この記事でどうしても伝えたかったメッセージがあります。それは「どんな時代・状況であっても、努力を続ければ夢は叶う」ということです。

シェフは、リーマン・ショックの直後、大不況の最中にイタリアへ渡り(しかも華々しいキャリアを手放して)、苦労の末に成功を手にされています。取材中「この話は、新型コロナウイルスの影響で先行きが見えない現在にとっても、希望になる」と強く感じました。

そんなシェフの姿に背中を押され、私自身も講座修了後に独立を決意しました。
今後はフリーランスライターとして、ヨーロッパの食文化・暮らしに関する記事や、国内外問わず人物にフォーカスした取材記事に携わっていきたいと考えています。もし私以外にも、シェフのお姿に勇気をもらえる方がいらっしゃったら……書き手として、これほどうれしいことはありません。

最後になりましたが、石川シェフ、パスタソースキッチンのみなさま。長時間の取材にご対応いただき、心から感謝申し上げます。
講座でご指導いただいた先生方、宣伝会議のみなさま、そして、最後まで記事を読んでくださった方々、本当にありがとうございました!