なぜ広告は、ナメられるのか?
いきなりですが、広告は不当に軽視されていると思う。
うすうすそう思っていたし、まあそれならそれでいいよ、こっちはこっちでプロとしてやるべきことをやるだけだからね。なんて虚勢を張っていたのだが、『宣伝会議』で「広告を『読む』。」という連載を2014年から書き始め、広告を起点にさまざまな事象を検証することがルーティーンとなってから、その「うすうす」は、ある苛立ちを伴った確信へと変わった。軽視と書いたが、実態は悪意かもしれない。
以前は、その悪意の原因は、多かれ少なかれ、広告が企業の利潤に紐づくことにあるのではないかと推測することで、片付けていた。企業が商品やサービスの対価に、できるだけ多くのカネを儲けようとするのは、経済活動として当然のことである。
しかし、商売人がカネを儲けようとする様が好ましく描かれたことを、古来より(ベニスの商人も越後屋も)、なぜか見聞きすることは少ない。その「おぬしもワルよの~」の片棒を担ぐのが、広告ということになる。
そんな広告のクリエイティブは、年間6兆円の広告経済(延いては日本経済)の発露として機能し、逆に言うと、それ前提のものである。商売あっての(従属しての)広告クリエイティブ。お金のためにやっている表現やコミュニケーションであることは、紛れようも隠しようもない事実だ。
つまり、他の(自分のやるべきことに徹している、ように見える)表現やコミュニケーションよりも地位が低い、なんてふうに思われているんだろうなあってね、ひねくれていた。
ところが、その結論には大きく無理がある。
カネに紐づいていることにおいては、自分のやるべきことに徹している、ように見える、映画や音楽や文学やジャーナリズムの方が露骨である。だって、ひとり入ればいくら、一枚売れればいくら、一冊売れればいくら、一部売れればいくら、だからだ。
彼らの方がもっと、とは言わないが、それなりに十分カネに切実で、どん欲なはずである。自分のやるべきことに徹するのは素晴らしいことだが、それに徹し過ぎて受け手を見失うと、送り手としての組織体や個人が維持できない。
それは、いかなるインディーズにおいても同じことだ。弱気に断っておくが、ぼくはそれらのコミュニケーションを敬愛することはあっても、誹謗中傷することはない。コミュニケーションが受け手あってのもの、メッセージや表現の生死のすべてを決めるのが受け手である以上、それがカネになろうがならなかろうが、ひとつでも多くの評価を希求するのは、あたりまえだからである。
つまり、彼らと広告クリエイティブは、同じコミュニケーションのメカニズム下にあり、この資本主義社会でコミュニケーションを生業とする同志だ。
広告が軽視される理由は、どうやら「商売に従属するからアカン」ということだけであるとは、言い切れないようなのだ。ぼくはその理由を、以下のように考える(自分の仕事が世間で愛されない理由を自分で考えるのだ、どうだ!)。
ひとえにそれが、「あらかじめ望まれていない」ものだからだ。ぼくのような、どっぷりの関係者ですらそうなのであるが、テレビCMを見るためにリモコンのスイッチを入れることなど、そりゃあない。ましてや、広告に縁もゆかりもない生活者にしてみれば、そんなことなど想像する必要もなく、もとよりテレビCMに付き合う義務もない。
仮に「最近お気に入り」のテレビCM(どれでもいいから嵐の出てるテレビCMが見たーい!犬のお父さんカワイイー!三太郎カッコイー!)があるとして、見たいと思ってテレビをつけたところで見たいものが見られるとも限らず、大抵の場合、見たくもないものを見続けさせられることとなる。ウンザリもするわな。
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