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コラム

四苦ハック人生 in Sanfrancisco

石焼き芋屋からカメラマン、プログラマーそしてECDへのキャリアアップ。AKQAロンドンのナカデ・マサヤさんに聞いた。

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AKQA ECD ナカデ・マサヤに聞く「インドへの一人旅からAKQAで働き始めるまで」

川島:マサヤさんはAKQAでもECDというシニアポジションで活躍されていますが、あまり公にプロフィールなどは公表されていませんよね。もしよければ簡単な自己紹介をお願いします。

ナカデ:僕は日本生まれ、日本育ち。バリバリの体育会系で、大学時代は早稲田大学サッカー部でサッカーだけをしていた。ポジションはサイドバック。当時同じポジションで相馬直樹選手(*鹿島アントラーズなどで活躍した元日本代表のJリーガー)が一つ下で入ってきて、自分のサッカーでの限界がはっきり見えちゃって、それで大学の3年の時にインドへ一人旅に行った。結局それで大学は中退しちゃったんだけど、その時にはじめて海外の面白さに目覚めたんだよね。

うちのお袋は、雑誌社のコンペで新人賞をとったり、セミプロみたいな感じでずっと文章を書いてきた人。なので漠然と自分も何か表現をする仕事をしたいとは思っていたけど、当時は本当に何もわかってなかった。

今から二十年ほど前、モスクワの映画学校時代のナカデさん

インドが楽しくて、次はモロッコに行って、そこで絨毯をたくさん買ったら日本に帰るお金がなくなっちゃった(笑)。それで現地で会った人からスペインに行ったら仕事があるよと言われ、今度はスペインに行った。そこで会った日本人のアーティストに影響を受けて、今度はニューヨークへ移り住み、そこでアートをはじめた。それから二年ぐらいアートをつくる生活をしていて、その後にいろいろあって日本に帰ることになった。

それで日本に帰ってからは、今度はロシアのバレエ団のツアーのバイトをはじめて、カメラマンなんかをしながらそのバレエ団と日本を回ってた。今思えば、何か表現に関係する仕事をしたかったんだと思う。

その後に、そこでできたネットワークが縁で、モスクワの映画学校に行った。

川島:ものすごい経歴ですね。それっていつごろのことですか?

ナカデ:うーん、20代の前半から6年ぐらいそんな生活を送ってたんじゃないかな。
それでロシアの映画学校で今の嫁さんに出会った。嫁さんがアイルランド人だったから、それまでは適当な英語だったけど、そこから急激に英語がしゃべれるようになっていった。
その後日本に帰ってフランスの3DCGを扱う会社の日本支社の立ち上げを手伝うことになった。今考えると、やっぱり英語がしゃべれるようになってたのが大きかったと思う。

川島:じゃあそれでベースを海外から日本へ移されたんですか?

ナカデ:そうそう、それが日本でのスタートって感じ。大学を辞めてから6、7年後のことかな。その間は、石焼き芋を売ったりして生活してたね。(笑)

六本木のSuperDeluxeをはじめた「生意気」のメンバーのデイヴィッド・デュバル・スミスとか、イッセイミヤケの香水のデザインなんかで有名なグエナエル・ニコラとかが当時はまだフリーランスでその会社に来ていて、そんな中に混じって一緒に仕事をしていた。今考えたらすごいメンバーだよね。ちょうどマックが出始めたころで、業界全体がリセットされたような状態だった。そこでDTPなんかをいちから覚えてデザインの仕事をするようになった。

川島:じゃあマサヤさんのデザイナーとしてのキャリアは日本でスタートしたんですね。

ナカデ:そういうことになるね。当時はテレビ業界のADみたい感じで、アシスタントとしてなんでもやっていた。2年ぐらいした頃にその会社がうまくいかなくなって、自分もフリーランスになった。前職で出会った人たちから色んな仕事を回してもらって、いきなりナイキのプロジェクトをもらったりなんかもした。

同時にいろいろな人と出会いがあった。例えばナガオカケンメイさん。彼が当時D&Departmentを構想していたころ、2ヶ月だけだけどその企画を手伝うアシスタントみたいなことをしていた。全然違う世界で本当に刺激的だった。他のスタッフが一生懸命仕事をしているのに、俺だけ「ブログっていうのがこれから来るから、作ったらいいんじゃないですか?」とか言いながら仕事をしていた(笑)

他にもワイデン・ケネディ東京の立ち上げの時で、責任者のジョン・ジェイと出会って仕事をしたりしていた。

川島:じゃあ日本だけど、外資系の会社だったり、その周辺のコミュニティーで仕事をされていたんですね。

ナカデ:やっぱり英語ができるっていうのがほとんどの仕事の入り口だったみたい。それでフリーランスで働いているのが面白くて、同時に当時出てきたフラッシュを独学で勉強してた。まだできる人がほとんどいなかったから、それも仕事が流れてくるきっかけになったよね。

その後は西麻布にあった「生意気」の仮社員みたいな感じで働いていたんだけど、でも仕事で深夜まで残業することがすごく多かった。当時すでに子供もいたし、嫁さんがヨーロッパなら仕事は夕方5時には終わるよっていうので、じゃあってアイルランドに行った。本当はロンドンに行きたかったんだけど、当時はお金もなかったし、北アイルランドのベルファストで嫁さんの実家に居候しながら生活をしていた。まずはグラフィックデザインの会社でTシャツのデザインやパッケージデザインなんかをしていた。それでその後ダブリンのウェブ制作の会社に移って3年ぐらいやってたのかな? でもその会社が潰れてまたフリーランスになった。そしたらフリーランスの方がお金がよくて、ちょっと貯金もできたのでロンドンに引っ越した。その頃はコーディングばっかやってたかな。

川島:え、マサヤさんはデベロッパーだったんですか?

ナカデ:そうそう、アクションスクリプトとかフロントエンドのエンジニアだった。

それでロンドンに引っ越してAKQAで働き始めた。2004年のころだったのかな?当時はだいたいスタッフが200人ぐらいの規模の会社だった。オフィスもまだロンドンとサンフランシスコとワシントンDCだけだったんじゃないかな?

それでナイキのアカウントに入って、それから12年間ずっとナイキを担当してる。ナイキのアカウントは当時はまだ俺を含めて数人だけだった。

川島:2004年ってことはレイさん(*レイ・イナモトさん、元AKQAのGlobal CCO)が入られた頃ですか?

ナカデ:そうそう、社長のAjazが「レアル・マドリード」をつくるんだって言ってたのを覚えてるよ。(*サッカーチームのレアル・マドリードは銀河系軍団と呼ばれ、ベッカムやジダンなどのスター選手をライバルチームから強引に引っ張ってくる手法が話題になっていた。)R/GAとかライバル会社から優秀なCDをどんどん引っ張ってきて(*レイさんは当時R/GAのECD)、そんな思い切ったリクルーティングはそれまでなかったんじゃないかな。だから面白い時期だったよね。

12年間ずっと同じアカウントだけど、この12年間どんどん産業が変わっている。最初はバナー広告やウェブサイトをつくるだけだったのが、プロダクトとかイベントとか全然違うこともやるようになっていった。扱っているアカウント自体も最初はUKだけだったのが、担当する部門も、マーケットもどんどん広がっていって、毎年違う経験ができて本当に楽しかった。

最近ではAKQA東京オフィスの立ち上げも手伝ったり、バスケットボールのRISEでは日本のライゾマティクスと一緒に仕事をしたりしている。

有望な若手選手を選抜する「Nike Rise」キャンペーンのため設営したインタラクティブなバスケットコート。AKQAがエージェンシーで、日本のライゾマティクスが制作。
Nike+ Training Club 現在までに1500万回以上ダウンロードされた人気のアプリ。エージェンシーがデジタルプロダクトを手がけた先行事例のひとつ。

川島:なるほど。僕もアメリカで仕事をしていて、たとえば海外ではまだ認知度が低くても、実はすごく面白いことを制作している日本の人たちと一緒に仕事をしたいっていつも思っています。でもプロダクション側で海外の案件を扱う準備ができていないことが多く、どうしても実現できないことが多い。例えば英語もそうですが、こっちでは常識とされるSOW (Statement of Work)とかの契約書類に慣れていなかったりしてますよね。

ナカデ:そうだね。だからそういう体制が整っているところだと仕事はしやすいよね。こっちにもブティック系で面白いことをやっているスタジオがたくさんあるし、時差や言葉のことも考えると、よっぽどなにかのスキルに秀でてるとかの理由がないとなかなか難しいかもしれない。でもライゾマをはじめとして、海外案件にもオープンで体制も整ってる会社もだんだん増えてきてる。

Nike FuelStation – NikeのFuelバンドの発売のために、ロンドンのナイキストアーに設営されたインタラクティブなデモ

次ページ 「英語と言葉の壁について」へ続く