長らく「身体の性と不一致感」を自覚しながら、「自分は性的マイノリティではない、普通だ」と、違和感から目を背けてきた私、佐倉。しかし、年齢を重ねる中、その違和感は大きくなり、追い詰められていきました。そんな私が、様々な人との出会いを通し、自身のアイデンティティと向き合ったおよそ7年の記録を見つめていきます。その中で私は、自らの中にあった無自覚な「偏見」にも気づいていくのでした。
「普通」とはなにか?答えを掴もうとあがき続ける人の自問自答を見つめます。
(個人を特定されないよう、登場人物には一部フェイクを交えていています。)
自分を殺して、母になるか? 子供は諦めて、男になるか?
2020年、37歳の私は、自分自身に、ある究極の二択を迫っていた。母になるか、男になるか。妊活のための産婦人科医、性同一性障害の診断をもらうための病院に、同時に通っているのだ。
妊活と男性化、同時に進める
30歳で結婚。以来6年間、何度妊活をしても、子どもは授からなかった。
「科学に頼るべし」と友人たちの後押しもあって、昨年6月、産婦人科の門を叩いた。そこで、私はありえないウッカリを犯す。初診の際「検診結果などあればご提出ください」と言われ、何気なくジェンダークリニックで受けた検査結果を提出したのだ。
それは性同一性障害の診断のための血液検査だった。細かいことは聞かれないだろうと、高を括っていたのだが…検査理由を聞かれてしまった。素直に「性同一性障害の診断のためです」と答えると、質問した看護師はパニックに。
「え?男性になりたいのに、母親になりたいんですか???」
かなり警戒した声。
妊娠したい思いはある、怪しい者でもない、治療を前向きに受けたいと思っています!と必死に言葉を重ねた。看護師は腑に落ちない顔をしながらも、納得してくれた。
初診を終え、帰りの電車の中で変な疲れがどっと出た。
自分がなぜ、このようなことになっているのか?閑散とした電車中で、私は記憶を紐解いていった。
「私は普通だ」という呪縛
女ではない、という感覚は幼稚園の頃からあった。性同一性障害の報道を見て、共感することもしばしば。自分の女性らしい声や、顔、胸を引き裂きたい衝動が起こることもしょっちゅうだ。それでも、私は「『彼ら』とは違う、私は普通だ」と目を背けてきた。身体を変えたいのも一種の自傷行為と、言い聞かせた。