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コラム

企画ビジネス温故知新!『日本の企画者たち・番外編』

第1回・小谷正一(歴史に名を遺す伝説的プロデューサー)

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先日発売した『日本の企画者たち』(宣伝会議刊)は、広告・メディア・コンテンツ界の礎を築いた93人の列伝です。なにしろ今日の日本をつくってきた飛びっきりの企画者たちの秘術のエッセンスが披露されていて、壮観です。読者は多くのヒントや心構えそして勇気を受け取ることでしょう。今回は本に収録できなかった人のお話のさわりをアドタイ読者のため特別に紹介いたしましょう。いわば「日本の企画者たち番外編」です。

小谷正一(1912年~1992年)は、新聞・ラジオ・テレビ・広告・イベントにまたがるマルチ領域でそれぞれ新しい道を切り拓いた先駆者であり、歴史に残る数多くの事業を成し遂げた伝説的プロデューサーです。小谷は「年越しの名刺を持たない男」といわれました。一つの仕事を成し遂げると未練なく次の会社で仕事に取り組む。それが宿命でした。

小谷の仕事で世に知られているのは、まず第1に、1946年1月の「闘牛」です。「夕刊新大阪」報道部長・小谷正一は同社の創刊1周年記念事業として四国の宇和島から大阪に22頭の牛を運び、西宮球場で闘牛大会を行いました。戦後の殺伐として楽しみの少ない時に大阪の大衆が熱狂する催しを提供しようという企ては度重なる困難を乗り切って実現しましたが、無情な雨のため興行は大失敗に終わり、資本金19万5千円を上回る20万円の赤字が残りました。

この企ての一部始終を小説にしたのが井上靖。井上は小谷の毎日新聞の同期生で、小谷から話を聞いて小説「闘牛」を書きました。それが芥川賞を受賞し、作家としての出世作になりました。小谷は「闘牛」の赤字20万円をその年5月の梅田・阪急百貨店で開催した「欧州名作絵画展」ですっかり帳消しにしました。百貨店初の本格的美術展です。

小谷の仕事の第2は、1949年11月の「プロ野球・毎日オリオンズ球団設立とパシフィック・リーグ創設」です。それまでの日本野球連盟は1リーグ制8チームで試合をしており、新規加盟を求める球団に対し連盟はなかなか門戸を開こうとしませんでした。その内情には新聞社間の対立がありました。

この時、小谷は急遽、毎日新聞本田社長に呼び戻され、36歳の若さで事業部長として毎日新聞の球団を野球連盟に加盟させる密命を受けました。「新聞の拡販にはプロ球団を持つのが一番」という販売店の要求に応えねばならない社の事情があったのです。小谷は上司の黒崎と奔走し、毎日球団の連盟加盟を画策しますが、各球団の思惑が入り乱れ、他の新規参加希望の球団もいくつか名乗り出て収拾がつかなくなり、1リーグ制から2リーグ制にする構想がにわかに具体化していきました。

1949年11月、日本のプロ野球は「太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)」と「中央野球連盟(セントラル・リーグ)」の2つに分かれ、その動きの中で毎日オリオンズは結成されます。パシフィック・リーグの7球団がまとまったのは小谷・黒崎2人の粘り強い説得が功を奏したのです。小谷たちがパシフィック・リーグを誕生させたといっていいでしょう。

小谷の仕事の第3は、1951年の「新日本放送」開局作業です。民間放送の出現は日本のマスコミを大きく変えるエポックであり、それまでラジオ放送はNHKしかありませんでした。売れる番組をつくり、広告収入だけで経営するノウハウを持っている人間は日本に誰もいませんでした。

またしても小谷が本田社長から初の民間ラジオ局「新日本放送(NJB)」への出向を言い渡されたのは、毎日オリオンズが優勝した直後の1950年12月でした。小谷は初代の放送部長として、「プログラム編成と番組制作と営業」を任されました。言い換えれば現場のすべての責任者になったのです。20人の放送局員(アナウンサーを含む)と10人の営業部員で毎日17時間の番組をつくりスポンサーをつけ、放送してゆくのです。

開局に向け、小谷はゼロからスタートしました。何の知識もない自分と若者たちがラジオ放送という新事業を立ち上げるのです。その困難が小谷のファイトを掻き立てました。実戦的社員教育をし、外部から専門家を集め、ラジオ局をすでに運営しているNHKから数人スカウトし、遮二無二、形をつくっていきました。番組の企画・編成をするとともに初の民間放送として電波料金の設定にも心を砕きました。

誰が見ても無謀と思われた突貫作業で小谷たちは開局に向け準備を進め、ついに1951年9月1日正午、新日本放送(NJB)は開局しました。シロウト集団が半年の苦闘の間に見事なプロに成長していたのです。

小谷の仕事の第4は、1955年2月の「オイストラッフの招聘」です。戦後初めて国交のない鉄のカーテンの向こうから、当時世界一といわれたヴァイオリニストを招きました。小谷はこの時、毎日新聞社からも新日本放送からも離れ、いわばフリーの立場にいました。しかし、「一番難しいことにチャレンジしよう」と思い立ち、ツテを求めて世界最高のヴァイオリニスト、オイストラッフと接触することに成功しました。

しかし実現のためのハードルはいくつもあり、どれも高いものでした。ソ連政府の許可、ギャラの交渉、事業の活動資金の調達(大組織にいないことの苦しさを小谷は身に染みて感じた)、そしてなにより日ソ関係の動向という高いハードルがありました。これらすべてをクリアし、オイストラッフが実際に日本に来た時、マスコミは“事件”として報じ、社会的話題となりました。その演奏の素晴らしさは日本人を熱狂させたのです。

小谷の仕事はまだ半分も紹介できていませんが、紙数がつきました。『日本の企画者たち』にはこんな凄い人たちが93人も勢ぞろいしているのです。