コピーライター/関西大学 社会学部教授 山本高史
なぜ広告は、ナメられるのか?
いきなりですが、広告は不当に軽視されていると思う。
うすうすそう思っていたし、まあそれならそれでいいよ、こっちはこっちでプロとしてやるべきことをやるだけだからね。なんて虚勢を張っていたのだが、『宣伝会議』で「広告を『読む』。」という連載を2014年から書き始め、広告を起点にさまざまな事象を検証することがルーティーンとなってから、その「うすうす」は、ある苛立ちを伴った確信へと変わった。軽視と書いたが、実態は悪意かもしれない。
以前は、その悪意の原因は、多かれ少なかれ、広告が企業の利潤に紐づくことにあるのではないかと推測することで、片付けていた。企業が商品やサービスの対価に、できるだけ多くのカネを儲けようとするのは、経済活動として当然のことである。
しかし、商売人がカネを儲けようとする様が好ましく描かれたことを、古来より(ベニスの商人も越後屋も)、なぜか見聞きすることは少ない。その「おぬしもワルよの~」の片棒を担ぐのが、広告ということになる。
そんな広告のクリエイティブは、年間6兆円の広告経済(延いては日本経済)の発露として機能し、逆に言うと、それ前提のものである。商売あっての(従属しての)広告クリエイティブ。お金のためにやっている表現やコミュニケーションであることは、紛れようも隠しようもない事実だ。
