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伝える、その先にあるもの ――湯浅誠氏の発信と10年

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あらゆる「伝える」の先にあるのが、いまこの社会なのだとすれば、発信者は「伝える」ことによる影響やその変化にこそ向き合う必要があるのではないか。「伝える」の先にこだわり続けた社会活動家・湯浅誠氏にスポットライトを当て、編集者たちの声も交えつつ、「伝える」ことの意味を考える。

いまでこそ「貧困」という言葉は、メディアの報道、書店に並ぶ本や雑誌などの見出しで頻繁に見かけるようになった。だが、ほんの10年前、貧困は日本には「ない」ものだった。その貧困が現在、日本最大の社会問題の一つだと言われている。なぜ「ない」とされていたものが「ある」と認識され、そしていま「どうするか」が議論されるようになったのか――。

Photo:杉能信介

伝え続けてきた先にあった確かな変化

湯浅氏が初めて貧困を「発見」したのは1995年のこと。当時、東京・渋谷の路上には、およそ100人がホームレスとして暮らしていた。よく訪れていた渋谷にそうした人たちがいるなど、当初は思いもしなかったという。

「もしその頃に『渋谷の路上にホームレスはいると思いますか?』と誰かに聞かれたら、私は『いないはずだ』と答えていたと思う。『渋谷にはしょっちゅう行っているけど、見たことないもん』って。私にとっても、貧困は『見えないもの』だったんです」。

それから20年以上、貧困の現場で支援活動に携わってきた。湯浅氏が「発見」してから10年以上が経つ2008年になっても、世の中では相変わらず貧困は「ない」ものとされていた。「見えないもの」を「見えるようにする」――その思いから、同年に刊行した著書のなかで語ったのは、「ない」はずの貧困を詳らかにする言葉の数々だった。

人ががんばるための条件を「溜め」、セーフティーネットが機能していない社会を「すべり台社会」、誰もが人間らしく暮らせる目指すべき社会を「強い社会」と表現し、タイトルには「反貧困」という力強いメッセージを込めた。

『反貧困』の編集を担当した岩波書店の小田野耕明氏は、それらの言葉の切り取り方のうまさに驚いたという。「貧困の本質を誰もが知っている言葉でキャッチーに伝える。それは、熱い心をそのまま社会にぶつけるだけではなく、どうすれば伝わるか、クールに分析できる頭と言葉を持っていたからだと思います。現場に深く関わってきたからこそ、それらの言葉には説得力があった」。

同じ年の2008年末、派遣切りされた労働者らに年末年始の食事と寝泊まりできる場を提供しようと、約20の支援団体により、東京・日比谷公園に「年越し派遣村」が開設された。その様子は連日メディアで報道され、村長だった湯浅氏は一躍時の人となる。貧困の実態が社会に突きつけられたことは、その後の10年で貧困対策がなされる契機にもなった。

この10年での変化について湯浅氏に聞くと、2016年8月、NHKの午後7時のニュースでの特集がネット上で炎上したことを挙げた。

「まとまった進学費用が用意できないなど貧困状態にある」として取り上げられた女子高生のTwitterの発信履歴から、「本当は生活に余裕があるじゃないか」「貧困がねつ造された」といった批判が殺到。ネットを中心に大きな議論を巻き起こしたが、その議論のなかに変化を見ることができたという。

「あの件は、一般的には貧困問題がまだまだ理解されていないことの一例として受け止められていますが、私の受け止め方は違います。その時にたくさんの議論を見てみました。相変わらずの批判が多くある一方で、『あれが相対的貧困なんだ』という声がそれなりにあった。その議論は思ったよりも拮抗していたんです。

長く貧困問題に関わってきましたけども、相対的貧困がここまで話題になることはなかった。専門家などではなく、『ふつうの人』たちからそうした意見が出たことに意味があるし、相対的貧困が表立った議論になること自体が理解の広がりを示している。そりゃあ、まだまだですよ。でもようやくここまでは来たんだなと思った。この10年で、それくらいには変わりましたかね」。

「認識」すらされていなかった貧困が、少しずつでも「理解」されつつある。その変化の要因を、一人あるいは一つのことに求められるほどシンプルな話ではない。それでも、湯浅氏らが世の中に伝え続けてきた活動は、貧困が社会問題化するにあたり、少なからぬ役割を果たしたのではないか。

社会問題として世の中に共有されたことで、公的な実態調査も行われるようになった。最新の調査(2015年)では、3年前の前回(2012年)に比べて貧困率が16.1%から15.6%に減少。改善は実質的に初めてのことだった。

「見えるようにする」から「目線を合わせる」へ

これまでの22年間で、「貧困」をテーマに執筆した書籍は共著含め15冊以上に及ぶ。

それぞれの目線の先に見るものを、湯浅氏は「景色」と表現する。自ら見てきた貧困の実態は、曰く「便所から見てきた景色」。便所からしか見えない、わからない景色をたくさん見てきた。そして「みんな便所に見に来い」ということを伝え続けてきた。

「だけど、それだけじゃあダメだと思ったんです。便所に来てくれる人たちもたくさんいましたが、世の中の『ふつうの人』たちはなかなか来ようとしないし、そもそも人って自分が見たいものしか見ないじゃないですか。

じゃあその人たちに耳を傾けてもらうためにはどうすればいいかと考えた時、便所で待っているのではなく、まずは私が彼らの景色を見に行くようにしました。3階の東側に住んでいる人からはどんな景色が見えているか、5階の南側に住んでいる人にはどんな景色が見えているのか、はたまた屋上に住んでいる人はどんな景色を見ているのか」。

それぞれのたまたま見知った範囲で認識やイメージが形成されるのならば、多くの「ふつうの人」たちには、そもそもどんな景色がどのように見えているのか。貧困問題に対して無関心あるいは無理解が働くのならば、どこがどう引っかかっているのかを知る必要がある。「見えないものを見えるようにする」から「目線を合わせる」ことを、何よりも意識するようになった。

「『便所に来て、ここからの景色を見てみろ』と言われると、言われたほうは面と向かって責められているように感じてしまうかもしれない。

だけど、3階の東側からの景色を一緒に見ながら、『きれいな夕日ですね。ところで、また違った景色が見えるところもあるんですよ。よければ見に来ませんか?』と言うと、なんとなく『別の景色もあるのか。見に行ってみてもいいかな』という感じになりやすい。やっぱりそうしたことが大事なんじゃないかと思うようになったんですね」。

「ふつうの人」との対話の回路をつくるために、目線を合わせる。その必要性に本当の意味で気づいたのは、2009年から2012年、当時の民主党政権下で務めた内閣府参与での経験だった。

心境の変化を綴った著書『ヒーローを待っていても世界は変わらない』の担当編集者である朝日新聞出版の中島美奈氏は、「湯浅さんは多種多様な意見のなかから妥協点を見出すことを基本とする人。その過程における交渉の術は、一見柔らかそうで実はしぶとい。それが社会活動家としての強みなのだと思わされる日々だった」と同書の制作当時を振り返る。

その「柔らかさ」と「しぶとさ」は、現在の発信の場である「Yahoo!ニュース 個人」の記事でも健在だ。

2016年7月より連載をスタートさせた「Yahoo!ニュース 個人」は、日本最大のプラットフォーム「Yahoo! JAPAN」が提供するニュースサービスのコーナーの一つであり、各分野の専門家や有識者が記事を書いて発信している。読者はいわゆる「ふつうの人」たちでもあり、当然ながら貧困問題に関心がない人も多い。

「内閣府参与を辞任してからの3年間、自分とは価値観の違う人たちとできるだけ多く会い、彼らにはどんな景色が見えているのかを理解することに注力してきました。それで実際、どのくらい多様な景色を見られるようになったのか、多様な景色を踏まえた発信がどのくらい通用するのか。そろそろ試したいと思っていた時期に『Yahoo!ニュース 個人』の執筆の話をもらい、やってみようと思ったんです」。

次ページ 「課題の「発見」だけでなく「解決」までを」へ続く