「6割」をファンにできるか
「情報は、どこかに〈抜かれる〉ことを前提にしておく必要があります」。こう話すのは、エア・ウォーター理事HR戦略室長の井上喜久栄氏だ。井上氏は、当時のダイエーが産業再生機構の支援を受けるに至る渦中で、同社で広報部長を務めていた。
名実ともに日本一の小売業だったダイエーは、90年代後半から経営再建の道を探り始め、02年3月に産業再生法の適用を受け、04年に産業再生機構へ支援を要請した。当時の産業再生機構の資料にはこうある。
「ダイエーグループは、相当数の雇用、取引先を有するとともに、ダイエーの店舗が核店舗となる商店街も少なからず存在するところである。〔…〕地域経済、雇用及び取引先企業への影響に十分に配慮するとともに、既存店舗を有効活用されるよう考慮ありたい」
それだけに、顛末には大きな注目が集まった。全国紙5紙で「ダイエー」に関する記事は、02年1月1日〜05年12月31日まで、全国主要5紙に延べ5810本。最も多いのは『日本経済新聞』で、1611本の記事を載せた。
ターニングポイントとなった記事は、〈ダイエー、あす総会――高木社長再任に海外株主が反対〉(『日本経済新聞』2003年5月21日付)。曰く「ダイエーが二十二日に開く定時株主総会に向け、外国人株主が高木邦夫社長の再任議案に反対票を投じることが明らかになった。〔…〕」とある。
ローソンやプランタン銀座の売却など、再建の道を探っていた高木社長への否決票。折しもWeb黎明の日差しを受け、人材の草刈場と化していたダイエーにあって、残っていた従業員は、なんとか自主再建したいと考えていた人ばかりだった。結局、高木社長は04年10月まで務めるものの、冷や水を浴びせる格好となった。
「その後もスクープ記事が載るたびに、社内に向けて『本日の報道内容については、会社が発表したものではない』といったアナウンスをしていました。従業員からしたら『またか』と思っていたかもしれませんが、社外だけでなく、社内に対する情報発信もしていました」(井上氏)