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コラム

エクストリーム就職相談 〜世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!〜

第1回 原点にあるのは「あんたは女優ちゃう、絶対監督や」という母の言葉、ロスと東京で活躍 するHIKARIが監督になるまで(前編)

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「エクストリーム就職相談 世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!!」第1回に登場していただくのは、ロサンゼルスと東京を拠点に活躍する監督・脚本家・プロデューサーのHIKARIさん。NetflixシリーズやHBO Maxシリーズのドラマで監督を務める他、自身の長編映画デビュー作『37セカンズ』では、第69回ベルリン国際映画祭、パノラマ観客賞・国際アートシネマ連盟賞、二冠受賞。そんなHIKARIさんの映像人生は、大阪での子役から始まった。

HIKARI氏

第1回
HIKARI

職業:監督/脚本家/プロデューサー
拠点:ロサンゼルス・アメリカ

女優を目指していたはずが、監督に

――こんにちは!ハリウッドの最前線で活躍されているHIKARIさんに、第一回のゲストになっていただき、本当にうれしいです。改めまして、どのようなお仕事をされているのか教えてください。

こちらこそ、会えて嬉しい!私は映画監督・脚本家です。拠点をロサンゼルスにおいてます。

――HIKARIさんが手がけられた、Netflixシリーズ『BEEF/ビーフ~逆上~』とHBO Maxシリーズ『TOKYO VICE』、どちらもめちゃくちゃ面白かったです。そしてなにより、ベルリン国際映画祭のW受賞作品、映画『37セカンズ』は、人生観が変わってしまうような、素晴らしい作品でした。冷め切っていた自分の心が揺さぶられまして…。

ありがとうございます。そう思ってくれることがありがたいですし、そのために映画を作ってるのかなってすごい思います。「映像」は作るのに時間もかかるし、お金もかかる。どうせ作るんだったら、心が伝わるような、人生を乗り越える“何か”に出来るようなものを作りたいと思ってます。

『BEEF/ビーフ ~逆上~』予告編
実データ グラフィック NETFLIX ©2023 Netflix, Inc.

NETFLIX ©2023 Netflix, Inc.

 

――まず、生い立ちと、海外に行かれたキッカケについて教えてください。

大阪市の平野区というところで生まれました。両親が1歳半ぐらいの時に離婚したので、うちは母子家庭で、母、姉、祖母と祖父の5人家族で暮らしてました。お母さんは、私が小さい頃からやりたいことを全部やらせてくれました。器械体操だったり、少林寺だったり。本当にいろいろと、お金にならないことばっかりやってました(笑)。

小学生のときに合唱団に入って、たまに海外から来た人たちと一緒に歌を歌ったり、オペラ劇団の子役で出演したり。土日はもちろん、学校終わりにコンサートとか練習だったり、習いごとが常にある生活を送ってました。

――今は演出する側ですが、年少期は演じる側だったんですね。

実は14歳のとき松竹芸能に入ってました(笑)。吉本の新喜劇とかお笑いを観て育ったので、舞台に立ちたいと思ってました。ちょうど山田花子さんがテレビに出てきた頃で、そういうのに憧れてましたね。2年間ほど、松竹芸能で子役として、舞台の勉強をしたりしてました。そして16歳の時、その演劇の先生の劇団に入って、お芝居をやってました。

でも高校生になると、いろいろと遊びたくなくなる年頃じゃないですか。今までずっと習いごとをやってたから、その反動で、カラオケとか遊ぶほうが楽しくなっちゃって。リハーサルで遅刻したりして。それで一回、お芝居の主役を降ろされたんですよね。演劇の先生に「お前は中途半端やから、絶対成功せえへん!」って言われて(笑)。

――うわー、多感なお年頃のときに、ガツんと。

泣きながら帰ったことを今でも覚えてるんですよね。帰って、お母さんに「そんなこと言われたー」って泣きついたら、「あんたが将来女優になりたいんなら、それをバネにして生きてくしかないよ」って慰められました。

劇団をやめてから、大阪の天王寺駅のあたりを歩いてたら、俳優の金城武さんがキラっと出てるポスターが目に入ってきたんです。「英語を話せると、10億人と話せる。」っていうコピーでした。英会話のジオスの広告だったと思います。

その時に「え、英語しゃべれたら10億人と友達になれるんや!」ってすごいびっくりして。金城さん自身、たしか英語や台湾語、何ヵ国語も話せるから、説得力を感じて。それで海外行きたい!っていう気持ちが芽生えて、英語をちゃんと始めました。

――どう本格的に?

英会話教室に通ったり。あと、NHKの英会話ラジオ講座をやってたんですけど、その冊子の裏に「海外の交換留学生募集」って書いてあってそれに応募しました。いろいろと審査とか、テストもあったんですけど、運良くそれに受かって。お母さんにお金を出してもらって、高校3年はアメリカのユタ州で過ごすことになりました。

――高3で初めてアメリカに行かれたとき、やはり言葉の壁は感じましたか?

感じましたねー。けど、とにかく喋るしかないから。最初は「何言ってんだこの人は」ってずっと思ってたんですけど…3ヶ月したある日、突然自分の口から「Oh thatʼs cool (あ、それいいね)」って自然にポロッと出て。普通に英語が入ってきた瞬間でした。

――高校卒業されてからは?

日本に戻ってきて、「大学は日藝(日本大学藝術学部)に行きたい!」と思っていたんですが、お母さんが私立の学費を知って「こんな高いとこ行かされへん」って絶句して。そこでお母さんは逆にアメリカに行った方が安くつくと当時思ったみたいで、「アメリカの大学行ったら?」って聞いてくれました。私も二つ返事で「行く!」と言ってからは一度も振り返らず、アメリカを目指しました。

――再び渡米されるんですね。

本当はカリフォルニアに行けばよかったんですけど、仲がよかった友だちがユタ州にシアターを学びに行くっていうから、私もまたユタ州に行こうと。南ユタ州立大学は「ユタ・シェイクスピア・フェスティバル」という、アメリカで二番目に古い舞台芸術のシアターカンパニーと繋がってた大学だったので、そこを受けることになりました。TOEFLの点数が50点ぐらい足りなくて、入試のときに自分でオーディションテープを作って、今までやってきた舞台の映像を送ったら、無事入れました。大学では「シアター(舞台芸術)」を主専攻に、「ダンス」と「アート」を副専攻に。

――卒業後は何をされていたんですか?

卒業後はロサンゼルスに引っ越して、役者として8年間ぐらい活動していました。CMやミュージックビデオなどを主に。当時は日本人役はおろか、アジア人の役自体が非常に少なくて。「受付のお姉さん」とか「歯医者さん」とか、いわゆるアジア人のステレオタイプっぽい役しか募集されていなかったです。

8年ぐらい経ったある日、大手クリームチーズのブランドのテレビCMで、天使役のオーディションの話が来ました。オーディション会場に、真っ白い服を着て、白い羽もつけて張り切って行ったら、三人の役のはずなのに、何百人も、自分のように真っ白い人がズラーっと会場にいて。「どう考えても受からんな」と思いました(笑)。

オーディションをやってから帰ったんですけど、家に着くころには「女優業はもうこれでおしまい」って思ってました。やり切ったし、CMも結構出たし。やり続けていくのはどうなんだろうと。

――8年間、「役者」以外に生計を立てるために何かされてましたか?

役者として活動するために必要なビザが下りない時期もあって、そういう時は写真を撮ってました。最初は知り合いの役者さんを35ミリで撮り始めて、最終的にはヒップホップ・アーティストのライブやバックステージを撮ったり。A Tribe Called Questとか、Eminemとか、Jurassic 5とかも撮影させていただきました。

――すごいビッグネームを!

いろんな音楽誌にも写真が載ったりしましたね。けど当時はフィルムだったので、どデカいプリントを自分で持っていかないと受け付けてくれなかったり。プリント代一枚に70ドルぐらいかかるから、結構生活は厳しかったです。

「こんなん無理やん~」って思ってた時に、お母さんが「学校戻ったら?」って言ってくれたんです。実は私が子どもの頃からお母さんは「あんたは女優ちゃう、絶対監督や」って言い続けていて。

――子どもの頃から見据えてらしたんですね。

「私の人生決めんといて!女優になりたいねん!」って子どもの頃から私はずっと対抗してたんですけど。するとお母さんは松田聖子さんとかアイドルの写真を出してきたりして、「よう見て、あんたは頬骨高ないから女優は無理や」って(笑)。ずーっと「あんたは監督に向いてる」って言ってましたね… なんだかんだ母がいつもキーワードをくれていました。

――そこから映画学校の名門のUniversity of South California(USC)へ。

USCに通い始めたのが30歳の時です。フィルム・スクール(映画学校)の学費は高いから、一年間の学費で貯金が全部無くなってしまい、生活は非常に苦しかったです。母にサポートしてもらったり、役者や写真のお給料で払ったり、あとはUSCを通じて、フランク・シナトラ氏のご家族から奨学金などをいただきました。卒業制作の費用も、周囲の方々にサポートしていただけたおかげで完成できました。

――映画学校に入った頃にはもう「監督になろう!」というお気持ちが?

いや、最初はシネマトグラファー(撮影監督)を目指していました。卒業制作で、短編映画『TSUYAKO』を演出してから、「うわ~、監督っておもろいわ、やみつきになる~」ってなった感じです。

――え、卒業する頃に思われるんですね!

そうそう、だから監督としてやっていこうと思ったのが33歳の時でした。

それまではカメラマンとして生活をしていこうと思っていて、本腰入れてカメラ・アシスタントの仕事もやっていたし、特機部や照明部もやっていました。「ハイネケン」ビールのテレビCMでは衣装デザイナーもやったこともあります。とにかく色々やっていました!

卒業制作の『TSUYAKO』がたまたま色んな映画祭に呼んでいただいて、トータルで50賞ぐらい獲ってしまって。その賞金で制作費が全部戻ってきて、借りてたお金も返せました。

「TSUYAKO 」Trailer

――USCはもちろん名門ですが、それでも卒業制作で成功を収めるのは実はとても難しいことかと思います。『TSUYAKO』が数々の映画祭で評価された“成功要因”は何だったと思いますか?

いや、正直、『TSUYAKO』があそこまで成功するなんて思ってなかったです。編集しながら「この映画だれが観んねん!やめてやる!」と思うこともありました。長編撮った時も「この映画成功せえへんかったら、私お好み焼き屋始めるわ!」って皆に言っていました。

でも、目標を立てることはずっと意識的にやってたと思います。ここまで来れたのは、「こういう人生を歩みたい」「こういう人と携わりたい」とか、常に何かしら思ってきたこと。そういう「想い」って、すごいパワーを持ってるから。自分の想いと意識によって、人生は広がっていくし、縁がなかったら閉じていくとも思います。

「目標を持つ」ってよく言われることですけど、目標を持ってても、そこに辿り着いたら終わっちゃうから、常に目標の“先”を見ることが大切かなと考えています。

たとえば、脚本を書き終えそうになったら、その映画を撮ることを次の目標にするんじゃなくて、「あの映画祭に持っていく」「あの人の目に留まる」「今後はこういう作品を作っていく」とか、自分の想いの中でどんどんレールを敷いていくこと。そうすればどんどん電車は進んでいくし、可能性が広がっていくと思います。

自分の思い通りに上手くいかなくても、それはそれでオッケー。執着したところで、行き詰まるだけやから、「これがダメなら次に行く!」っていう感覚を常に持っていたら、楽しみながら進んでいけるんじゃないかな。

あとは、自分の直感を信じることが大切だと思います。色んなことで悩んだり、人が言ってくることをいちいち気にしてると、心がモヤモヤになって、自分の直感が感じ取れなかったり、聞こえてこなくなることがあるから。そういう時は、ヨガをするなり、散歩するなり、私の場合は温泉ですけど(笑)。自然と触れ合ったりして、自分のエネルギーを調和してみること。そういう自分流の、気の持ち方を若い子たちに見つけていってほしいと思います。(後編につづく)

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  • HIKARI
  • アメリカを拠点に活躍する映画監督・脚本家。
  • ※これまでの主な作品
  • ・長編デビュー作、映画『37セカンズ』ー 第69回ベルリン国際映画祭、パノラマ観客賞・国際アートシネマ連盟賞、二冠受賞。第18回トライベッカ映画祭や第44回トロント国際映画祭で上映。
  • ・Netflixシリーズ『BEEF/ビーフ~逆上~』(3エピソード)― 第75回プライムタイム・エミー賞ノミネート作品。
  • ・HBO Maxシリーズ『TOKYO VICE』(2エピソード)
  • タイムライン
  • 1994年 高校3年生のときに初渡米、ユタ州へ留学
  • 1995年 南ユタ州立大学入学 (専攻:舞台芸術、副専攻:ダンス・美術)
  • 1999年 南ユタ州立大学卒業、ロサンゼルスに移住
  • 2000年 女優、フォトグラファー、アーティストとして活動
  • 2010年 南カリフォルニア大学院 映画芸術学部入学
  • 2014年 南カリフォルニア大学院 映画芸術学部卒業
  • 以降、監督・脚本家として活躍する
  • 2019年 長編デビュー作 映画『37セカンズ』公開
  • 2021年 第30回日本映画プロフェッショナル大賞新人監督賞受賞
  • 第61回日本映画監督協会新人賞、新藤兼人賞2020受賞
  • Instagram:@thehikarism