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コラム

エクストリーム就職相談 〜世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!〜

第5回「オーストラリアで大人になった」アーティスト KENTARO YOSHIDAが、いま目指すもの

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「エクストリーム就職相談 世界で活躍する⽇本⼈クリエイティブに聞け!!」第5回に登場していただくのは、オーストラリア・シドニー在住のアーティスト、イラストレーター KENTARO YOSHIDAさんです。音楽関連やアパレルブランドのデザインやイラスト、巨大壁画の制作、さらには自身の作品づくりと、コマーシャルワークを手がけながらもアーティストとしての地位をしっかりと確立しています。美大に行くことをあきらめ、軽い気持ちで渡ったオーストラリアの地で、KENTAROさんがどのように今の仕事を開拓していったのか。

KENTARO YOSHIDA (ヨシダ・ケンタロウ)さん
職業:アーティスト、イラストレーター
拠点:オーストラリア、シドニー

 

ペン画の原点にあるのは、小・中学生のときに読んだ漫画

——シドニーで仲良くしてもらっているケンタロウさんを是非ゲストとして呼びたいと思っていたので、取材を引き受けていただいて、とても嬉しかったです。改めてどのようなお仕事をされているのか、教えてください。

シドニー在住のフリーランス・アーティストです。これまで個展やグループ展での展示を行なったり、日本と海外の企業やブランドとのコラボをやらさせていただいています。

仕事内容でいうと、自分はデジタルでのグラフィック/イラスト作成、手描きだと壁画作成からコミッションでキャンバス等に描いたりと様々です。 最近はクライアントワークがほとんどでオーストラリアの企業がメインでしたが、この数年は日本、アメリカ、ヨーロッパの方達とも仕事をさせていただく機会が増えま した。ただ空いている時間に自分の思ったことや感じたことを落書き的なノリでスケ ッチしてそれを自分のパーソナルワークとして制作したりもしています。

——シドニーの州立美術館でも展示されていましたよね。美術館の入口を通ると、真っ先に目に入るのがケンタロウさんの作品でした。

はい、2019年にニューサウスウェールズ州立美術館で運良く展示の一環としてメインホールに壁画を制作をする機会を得ました。今思えば大変ありがたいことに、あの展示以来、仕事の幅も広がりました。

仕事内容は依頼ごと異なりますが、 色々な仕事をさせていただけている現状にはとても感謝しています。ただ僕自身の現状の課題はいかに自分のスタイルで描き続けていくことができるかだと思っています。例えば毎日サーフィンして「朝見る海の色が綺麗だから、水彩画で描きたい」というインスピレーションを受けるアーティストもいると思いますが、僕はサーフィンをしている時はそれに没頭して絵のことは忘れていることが多いです。自分はそういう風に自分の好きな物事からインスピレーションを得るというよりは、経験や思い出を絵に落とす事が多いです。どこかで自分のために制作してる節がまだ残っているというか物作りにおける自分の癖ですね。あとは頭がどうしてもグラフィック系なので、例えば海の絵を描く時「白波」と「青波」を分けて線のレイヤーで描いて部品的な要素を作り、それをいろんなシチュエーションに応用しています。

——物作りにおいて、ケンタロウさんの原点は何でしょうか?

漫画だと思います。小学生の時から漫画が好きで、真似してノートに描いたりしてました。小学2年生の時『月刊コロコロコミック』でサッカー選手の似顔絵コンテストに応募して入賞しました。入賞と言っても雑誌のコーナーに小さく載るだけですが(笑)。

中学卒業するぐらいに漫画『クローズ』が好きになって、高校ではヤンキー漫画ばかり読み、リーゼントばかり描いていました。今思えばリーゼントも線で描くものなので、その頃からペン画が好きだったんだと思います。タトゥーが好きなのも、線が主体に描かれているから好きなんだと思います。


Photography: Yusuke Oba
 

——漫画家になろうとは思わなかったのですか?

一瞬だけよぎったことがあります。高校3年の夏、卒業したら美大に行こうと考えていましたが、美大に入るには「国数英」が要ることを後から知り、きっぱり諦めました。秋になると、周りは就職活動か受験勉強に励む中、暇しているのは僕と通信の高校に通う地元の友達一人でした。あまりにも暇だから、ふたりで一週間だけ各々漫画を描いて、一週間後にお互い見せ合おう、漫画バトルをしようということになりました。

それから毎晩コピックのペンか何かで描いてたんですけど、一週間後に僕が描けたのはスケッチブックにフルカラー、たったの5ページぐらい。ミッシェル・ガン・エレファントというロックバンドが好きで、そのストーリーは、ボーカルのチバユウスケさんがある日仲間がやられたという電話をうけ復讐するべく、渋谷にギャル男をやっつけにバイクで向かうというだけのセンター害(ガイ)という話(笑)。バイクでボーっ!!っ行くところに1枚使ったり。高橋ヒロシ先生の漫画『クローズ』みたいな話にしたかったので、ある程度構想は頭にあったんですが、家を出ていくシーンで力尽きてしまいました。

その5ページを友達に見せたら、かなり引いてました。彼が持ってきたのは紙1枚、「お笑いマンガ道場」みたいな4コマ漫画2つでした(笑)。でも5ページ描くだけで自分は相当大変で疲れてしまったので、連載のように毎週19ページ描くことなんて想像も出来ず、僕には漫画は無理だと諦めました。

 

50本以上のサーフボードに絵を描いた後、デザイナーに

——どのようにして海外に行くことになったのですか?

今思えば軽いノリで来てしまいました。高校最後の夏、内申も良くなかったので、美大どころか国内の大学も推薦してもらえず、どうしたものかと悩んでいた時、母が「オーストラリアに行けば」と言ってくれました。母はガラス作家なのですが、母の元教え子がその時オーストラリアに留学していました。その人がいるうちに行って英語でも勉強すればと母に勧められ、オーストラリアに行くことを決めました。

正直、その頃は進路に対して悩み疲れてました。自分も周りも。高校2年の夏休みにデッサンの講習を受けていたんですが、そこですでに挫折気味でした。線でしか描けなくて。濃淡で描いてるつもりなのに線で描くなと先生に怒られ続けていました。そこでも諦め気味になり。

オーストラリアは入学試験もなかったので、行くと決めるだけで自分の「進路」が決まりますし、同時に解放される気がしました。思えば全てから逃げようとしてたのかもしれません。

——昔から海外に憧れていたとか、海外に住みたいとか、そういう願望はなかったのですね。

全く無かったです。何も考えてなかったです。とりあえずオーストラリアに10ヶ月行ってみようという気持ちしかない、18歳でした。今思えば浅はかだったなと思います。

——ケンタロウさんはオーストラリアに来て、英語という言語の壁は感じましたか?

めちゃくちゃ感じました。高校であまり勉強してなかったので、最初来た頃は小学生レベルの英語だったと思います。来てから英語をもの凄く勉強しました。はやく英語を話せるようになりたいという気持ちより、生活しやすくなるから覚えてしまいたいという気持ちでした。例えば食中毒になった時に覚えた“food poisoning (食中毒)”は生きた英語だと思います(笑)。

徐々に英会話にも慣れてきたところで、IELTS英語検定のテスト勉強もし始めました。それから読み書きが著しく伸びたことを親は喜んでくれて、現地の専門学校に行けと言ってくれました。シドニー工科大学付属の専門学校 UTS InSearchに1年4ヶ月通うことになり、成績がギリギリ良かったのでシドニー工科大学に編入することができました。

——英語を勉強されている間、絵の方は?

来てから全くやってませんでしたね。もちろんずっと好きでしたが。専門学校に行く時に、デザイン科を選び、デザインやビジュアルの考え方について学びました。グラフィックデザインの勉強をしていくなかで、タイポグラフィー然りアルファベットを扱うデザインに関しては自分の母国語ではないので慣れるのに時間はかかりました。そして大学に編入してから本格的に絵を再開しました。

——それからどのようにしてアーティスト活動を始められたのですか?

大学在学中に「オニール(OʼNEILL)」というウェットスーツのブランドでインターンをさせていただき、沢山のことを教えてもらいました。手描きのイラストをベクターに変換したり、デザインから商品化までの流れに携わったり。

そこで、サーフィンのプロジュニア大会のロゴを作ってほしいというお話をいただき、リファレンスとして渡されたのが、ベン・ブラウンさんというアーティストの作品でした。彼のアートはアメリカンコミック調で、線が毒々しいけど美しく、初めて拝見した時に強い刺激を受けました。高校生の時に好きだったカネコアツシ先生の漫画『BAMBi』に似てると思いました。そこから見よう見まねで、ベン・ブラウンさんのスタイルを真似したりしてました。

在学中、友人たちからもっと描くように勧められ、友人だったプロサーファーの橋本小百合さんが僕に「サーフボードに絵を描いて」と言ってくれました。一枚板に描くこと自体初めてだったのでとても緊張しました。ボードに描く際、通常サンディングしてから描くのですが、それすらも分からなくてツルツルの表面にそのまま描いてました。「なんでこんなにインク弾かれるんだろう」って一人で思いながら(笑)。間違えたスプレーで描こうとしてボードが変色したり、本当に間違いだらけでしたが、その当時の流行りもあり在学中に50本以上のサーフボードは描いたと思います。

大学卒業後は、2年間小さなデザイン会社でジュニアデザイナーをして、その後シドニーの広告代理店に転職しました。7年間デザイナーとして働かせてもらい、2019年にアーティストとして独立して、今に至る感じです。

——アーティストとしてのご自身のスタイルは変わりましたか?

はい、意図的に変えてきたのかもしれません。自分ができることが限られている中で、描けるモチーフを少しずつ増やしていき、出来ること・出来ないこと、好きなこと・好きじゃないことを見極めながら、ひとつひとつ積み重ねてきた感じです。

ベン・ブラウンさんに憧れ、最初は白黒の頭蓋骨の暗いモチーフばかり描いていました。でも2016年に開いた「SOLO」という個展をきっかけに、自分のタッチを少しシンプルにして、ユーモアな要素を足してみました。色も使ってみて。すると、自分のスタイルとしてしっくりきたんですよね。例えば重い絵は、描き込めばかっこよくできるものですが、3本線を描いても、実は2本要らないのかもしれないとか、試行錯誤して自分の絵のタッチをより良いものにしようとしてきました。

自分のスタイルを見つけるまで少し時間はかかりましたが、好きになるアートは昔からペン一本と紙一枚だけで成立できるものでした。結局はチラシの裏に描いていた子供の頃から何も変わっていないんですよね。そういう絵しか描けないですし。

パーソナルワークで筋トレし、コマーシャルワークでパフォーマンス

——活躍の幅は年々広がっていますよね。その可動域は意識されていることですか?

逆に今はそれが悩みでもあります。クライアントの方々からいただくお仕事、いわゆる「コマーシャルワーク」をやりすぎかなと思うことは多々あります。自分の個展や「パーソナルワーク」をもっとやりたいとも考えます。

言葉にするのは難しいですが、「パーソナルワーク」はアーティストにとって「筋トレ」みなたいなものかなと思ってます。一方で「コマーシャルワーク」はその鍛えた筋肉でパフォーマンスすること。筋トレしてヒットポイントを上げていかないと、パフォーマンスで結果を残すのは難しいです。

かと言って「コマーシャルワーク」を積極的にやらさせていただくことは生活のために必要なことでもあります。そういう意味で「パーソナルワーク」しか作らないコンテンポラリーやハイエンドのアーティストには尊敬しかないです。

——では、「パーソナルワーク」ひと筋でやっていきたいと思うことはありますか?

僕は今と同じように、とりあえずバランスよく続けていけていきたいです。例えば、尊敬するジェレミー・フィッシュさんというスケート・グラフィックのアーティストがいるのですが、元々スケート雑誌『スラッシャー(THRASHER)』のグラフィックデザイナーとして活躍する傍ら、自分でスクリーンプリントを作ったりペン画の絵を描き続けてきました。結果、今はサンフランシスコ州立美術館のレジデントアーティストになられています。彼の横乗りのスタイルがサンフランシスコという街と相性が良いということもあるかとは思いますが、これは凄いことです。


 

——ご自身の作品に日本人らしさを感じることありますか?

難しい質問ですね。自分は日本生まれで、日本の田舎で普通の日本の家庭で育ったので、何をどうしても日本人感は出てしまうと思います。

——以前「僕はオーストラリア人(オージー)になりたいのかもしれない」とインタビューで仰っていたのが印象深かったです。

そう思った時期もありました。今はオーストラリア人になりたいというより、自分はもうオーストラリアナイズされている人間なんだと思っています。 居酒屋よりパブでビールを飲むことが好きですし、知らない人にも「最近調子どう?」ってビーチで気さくに声を掛けてしまいますし。

よく考えてみたら、17、18歳で渡豪しているので、こっちで大人になりましたし、こっちでお酒を飲めるようになりました。拙い英語のスラングを肴に飲んでいる時間の方が人生で長いので、日本人ですが、オーストラリアで大人になったと思っています。それは中途半端なことでもあるので、いっそのことオーストラリア人になりたいと思ったことはありましたが、今はそんな自分を前より理解しているつもりです。

——海外での仕事と日本での仕事、違うことを意識したりしますか?

これはどちらにも当てはまってしまうことなのですが、ベタに日本人らしさを出そうとはしないことは意識しています。芸者と富士山とか。僕が安易に「日本人らしさ」だけを魅せようとしてしまうと、フリー素材みたいになりかねません。バランスは大切だと思います。

僕に仕事をくれる人は、日本人のユニークさがほしい海外の人か、海外っぽさがほしい日本人なのか、それとも僕をいちオーストラリア人のアーティストとして見ている人なのか、これらのどれかだと思います。お仕事のお話を頂いた段階で、自分に何が求められているのか、できるだけ早く気付けるように努めています。

英語でメールをいただいた時に「Hi Kenny,」と宛ててあったら、自分をオーストラリア人として接していますが、「Hi Kentaro,」と宛ててある場合は、どこかで日本人のアーティストとして接してくれている気がします。そのニュアンスを汲み取り、直接作品のビジュアルに影響することはなくても、仕事のやり方を考えたり、相手とコミュニケーションする上で大事にします。

——Kennyとサインされる作品と、Kentaro Yoshidaとサインされる作品があるのは、そういうことなんですね。

はい、今は分けるようにしています。悩みどころですが、「パーソナルワーク」でもっと抽象的なアートを作りたいと思っていて、それはKentaro Yoshida 名義で行きたいですね。Kenny 名義も続けつつ。

——ご自身のブランディング然り、ご自身のことを常に客観視されている印象です。

客観視は常にしていたいです。自分の絵を一晩寝かせて朝見てみたり、常に自分の作品を客観視していないといけないので。あと、オラオラしていると思われがちですが本当は自分に自信がないので(笑)。

——では、ずばりクリエイティブ系のプロフェッショナルとして求められるスキルは何でしょう?

スキルかどうかは分かりませんが、自信ある人が成功すると思います。オラついているという意味ではなく、努力している人に自信はついてくると思います。

逆に言うと、自分だったら自信がない人には仕事は頼まないですよね。自分が昔から自信がなくて苦労しましたが、「これ出来ますか?」と聞かれたら、「出来ます」とすぐ言えるような人間に仕事は任せられると思います。相手を不安にさせないことが大事な気がします。

——ご自身の10年後のビジョンについて教えてください。

10年後も同じことを続けていて、発展させ続けていたいです。派生して違うビジネスとまではいきませんけど、絵は絵で、コマーシャルはコマーシャルで、両方に評価が着くようになってくれたら嬉しいです。

——最後に、世界を舞台に活躍したい若手クリエイティブへのアドバイスをお願いします。

世界で活躍したければ、英語ができるに越したことはないです。コミュニケーションできることに越したことはないです。でも英語をどう勉強するかは、人それぞれだと思います。趣味が合う外国人の友達と遊ぶとかでもいいと思います。

絵描きに関して言うと、ペン一本と紙一枚だけで何かを作れる人間になったほうが良いかもしれません。SNSやアプリで誰でも簡単に器用に作れる時代だからこそ、ペンと紙でスケッチ出来ることに意味があると最近はより感じています。アナログではありますが、手間を経験することが大切なんだと思います。

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KENTARO YOSHIDA (ヨシダ・ケンタロウ)

アーティスト、イラストレーター。オーストラリア、シドニー在住。
アナログのインクドローイングからデジタルドローイングをもとに作品やクライアントワークを制作。これまで国内外で様々な企業やアパレルブランドとのコラボレーションを手がける傍、個展、グループ展での展示も行なっている。巨大な壁画から紙やキャンバスへの繊細な絵まで精力的に活動している。

1985年 富山県で生まれる
2003年・18歳 高校卒業後、渡豪
2004年・19歳 シドニー工科大学付属の専門学校 UTS InSearchに入学
2005年・20歳 シドニー工科大学に編入
2008年・23歳 シドニー工科大学卒業
2012年・27歳 M&C Saatchi 広告代理店に転職、デジタルデザイナーとして活躍
2015年・30歳 副業としてイラストレーター業を始める
2019年 34歳アーティストとして独立。
以降、シドニーノーザンビーチズを拠点に様々なブランドや企業とコラボレーションワークを行いつつ、精力的に制作活動を行っている。
Instagram: @kentaro_yoshida Website: kentaroyoshida.com