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コラム

新版・伝説のPRパーソン~広報の歴史的発展に貢献した人々~

大統領広報のパイオニアは、いかに世論の支持を勝ち取ったのか

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アメリカ初のノーベル平和賞を受賞した大統領

写真 人物 セオドア・ルーズベルト・ジュニア
セオドア・ルーズベルト・ジュニア(Theodore Roosevelt Jr.、1858年〜1919年)

セオドア・ルーズベルトは軍人、政治家、歴史家、探検家など、さまざまな顔があります。アメリカ旅行でサウスダコタ州のラシュモア山を訪れ、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、アブラハム・リンカーンの、4人の偉大な大統領の顔が岩山に彫られている国立記念碑を目にされた方もいらっしゃることと思います。


写真 人物 4人の偉大な大統領の顔が岩山に彫られている国立記念碑
アメリカ合衆国建国から150年間の歴史に名を残す、4人の大統領(左からジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン)。

彼は、1901年9月に暗殺されたウィリアム・マッキンリー大統領に代わり、副大統領だった42歳という史上最年少で第26代大統領に就任し、強いリーダーシップを持って、多くの政策を行いました。また、日露戦争後の調停役が評価されて、アメリカ初のノーベル平和賞を受賞した大統領でもあります。

 

「こん棒外交」からシャーマン反トラスト法の活性化まで

ルーズベルトは、歴代の大統領と異なり、「スクウェアディール」や「こん棒外交」に代表されるように、連邦政府の権限の強化と、公共の利益を擁護する政策を取り、世論(一般大衆)の支持を勝ち取りました。

ちなみに、「こん棒外交」とは、「棍棒を携え、穏やかに話す」(speak softly and carry a big stick)という彼自身の言葉が由来で、主に西半球の諸外国に対して積極的に介入した外交政策をいいます。

ルーズべルトは、自由経済の名の下で、急成長を続けていた巨大企業の産業発展の重要性を理解していました。しかし、J.P.モルガンやJ.D.ロックフェラーといった大実業家たちの行き過ぎた活動を取り締まるために、有名無実化していたシャーマン反トラスト法を活性化させるなど、取り締まり強化に取り組みました。

たとえば、1902年にペンシルヴァニア州で「無煙炭」炭鉱労働者のストライキが起きました。このストライキは、炭鉱会社とその親会社である鉄道会社と炭鉱労働者組合との争いでしたが、その鉄道会社を経営するJ.P.モルガンなどの大資本家たちの利害を封じ込めたいルーズベルト大統領が介入しました。このストライキはアメリカの労働争議史上、初めて政府の介入を招いたものでした。


イメージ 炭鉱労働者のストライキの決議について合意する会議の様子
1902年に起きたストライキ収拾のために、J.P.モルガンは経営者側の同意を取り付け、ワシントンでルーズベルト大統領と会い、連邦政府の調停案を受け入れた。

ストライキの長期化による無煙炭の価格高騰は、家庭燃料として無煙炭を必要とする多くの国民にとって死活問題でもありました。ルーズベルトは、政府の調停案を拒否した炭鉱会社に対して、政府による炭鉱の一時的な経営権取得という非常手段を突きつけるなど強硬姿勢を貫きました。

その結果、会社側は最終的に政府の調停案を受け入れ、ストライキは労働者側の実質勝利となり、大統領の威厳も保たれました。

 

暴露記者=「マックレーカー」の活躍


イメージ 大勢の市民に取り囲まれた遊説の様子
ルーズベルトは積極的に遊説に出かけた。時には列車の最後尾で行ったり、大勢の市民に取り囲まれたりといった写真が数多く残っている。

この労働争議において、「マックレーカー」とルーズベルト自身が名付けた暴露記者の活躍が、一般大衆の大統領支持に貢献したと言えるでしょう。事実、ルーズベルトは暴露記者の記事を元に、地方行政や民間企業の問題解決に取り組みました。

ルーズベルトは、20世紀はじめに急速に普及し始めた新聞・雑誌といったマスメディアで政治家や公務員などの不正や醜聞といった「臭いもの」を暴露して書きたてる「マックレーカー」たちを利用し、自身の活動に利用したのです。

ちなみに、『スタンダード石油会社の歴史』という著書でJ.D.ロックフェラーの強引な会社経営を攻撃したアイダ・ターベルや、アプトン・シンクレアなどが代表的なマックレーカーとして有名です。

常に「ステージの中心にいたい」性分のルーズベルトは、当時のマスメディアである新聞や雑誌の影響力をよく理解していました。彼は、ホワイトハウスに詰める記者たちに、礼儀正しく応対し、プレスルームの改装を手がけ、ホワイトハウス滞在中は、毎日午後非公式の記者懇談会を開催しました。また、公式の大統領報道官を登用したのもルーズベルトです。

彼は、今日の大統領が目標達成のために行う様々な広報テクニックを発案しました。たとえば、彼は数多くの写真(ポートレート)を撮影していますが、そのいずれにもキャプションをつけました。これは新聞の一面や雑誌の表紙に掲載される効果を意識したものです。

イメージ 遊説の様子
遊説の様子。

また、困難な局面には地方遊説に出かけ、一般大衆の前で演説を行いました。これは、1900年の大統領選挙期間中、(前大統領の)マッキンリーとともに20州2万キロに及ぶ鉄道を利用した遊説活動を行った経験から学んだものと思われます。

地方遊説には、ワシントンの記者が同行して、その活動は逐一報道されました。現在は、大統領をはじめ各国の首脳の外遊に記者が同行するのが一般的ですが、ルーズベルトが列車遊説に記者を同行させる、という仕組みを取り入れました。

大きく変わる20世紀初頭のアメリカ大統領として、ルーズベルトは「この国に必要なことだから」という強い信念のもとで、積極的な「大統領広報」を企画実践しました。この姿勢は、のちのウッドロー・ウィルソン大統領が第一次世界大戦参戦の際に設立した「広報委員会(CPI)」にも受け継がれました。

ただし、彼は「スピン」を企画実践した初の大統領だとの研究論文もあり、現在では彼の行動すべてが容認されるものではない、との評価もあります。

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広報豆知識(Public Relations Tips)~普段使っている専門用語の由来を知る

スピン(SPIN)

「スピン」(SPIN)は、情報を特定の視点や意図的な説明で歪め、好意的な側面を強調したり、不利な側面を軽減したりする手法。広報や政治において、スピンはプロパガンダの一形態であり、意図的に行われる。情報の解釈や伝達に一定のバイアスをかけ、特定の意見や立場を支持するように見せかけることを主な目的としている。これによって、受け手が特定の視点や信念を受け入れやすくなるため、政治、メディア、広告など、さまざまなコンテキストで使用されている。

たとえば、政治家がある政策を広報宣伝する際、その政策の利点を強調し、欠点や反対意見を軽減するような情報を、意図的に発信することで、人々の意識や感情が特定の方向に導かれることを期待して行われる。

スピンは、情報操作の手段として私たちが気づく気づかないにかかわらず、幅広く行われている。メディアリテラシーが求められる現代社会において、私たちは情報を批判的に評価し、異なる視点から情報を考え、判断し、行動することがまずます重要である。

エドワード・バーネイズは、スピンの使い手だったといわれ、スピンの実践者を「スピンドクター」という。