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コラム

朝の連ドラ「あまちゃん」で人気沸騰! “北鉄”(=三鉄)の本当にあった話

「あまちゃん」ユイちゃんとアキちゃんのモデルは実在か、空想か?

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赤字脱出のための魅力開発とメディア発信

今回は、「あまちゃん」がやってくるまで、三鉄が何をしていたかを少し紹介させてください。

私が岩手県の依頼を受けて三鉄の準職員として赴任したのは、2008年4月です。当時、「いわて産業振興センター」という県の外郭団体でコーディネーターをしていましたが、岩手県商工労働観光部から「三陸沿岸の観光活性化、地域活性化を主目的として三陸鉄道に行って欲しい」と要望がありました。

三鉄には、友人で岩手県地域振興部長だった山口和彦さんが前年の07年に社長として着任していました。山口前社長は温厚で低姿勢、人当たりも良く、沿線住民の人気者でした。重厚長大な従来の役人ではなく、誰とでも対等に接してくれる友人みたいな存在で、地元の漁師や商工関係の人たちとも仲良くなり、それが三鉄を活用してさまざまなイベントを展開するきっかけにもなりました。

震災前から、三陸沿岸の観光は落ち込んでいました。東京の大手観光事業者に誘客を頼る傾向が強く、大手旅行会社の担当者は「神様」のような存在でした。しかし、私の持論は「これからは個人旅行の時代。いつまでも団体に頼ると疲弊が進む」。それぞれの地域の魅力発掘とPRの重要性を訴えました。団塊世代の退職が進み、個人で旅を楽しむ人たちが増えていたからです。

大手旅行会社の幹部に異を唱えたこともあります。仙台からバスで「いわて三陸1万円の旅」を募集し、沿岸協力を打ち出したのです。でもこれは沿岸の協力にはつながりません。地元に我慢を強いる安価な宿泊料金、値引きの交通料金があってこそ可能になる1万円ツアーだったからです。参加者が増えるほど赤字が拡大します。それよりも、魅力あるところをクローズアップしていただき、それに見合ったフィーを設定して欲しいとお願いしました。

三鉄も団体旅行客に頼っていました。大手旅行会社に提案するため出張する営業スタイルが主でした。確かに数千人を運んでくれる大手のパワーに、田舎の営業では太刀打ちできません。それでも2000年から赤字となり、その後一度も浮上することなく、右肩下がりで赤字補てんを沿線市町村にお願いするのが慣例となっていました。

私は「企画屋」ですから、三鉄を核とした「パブリシティ戦略」に早速取り組みました。最初は、外からは同一地域で連携しているように見えるが、実は市町村の壁がある。そういうものを壊すことから始めました。一つの観光戦略のもと、ともに取り組んでいく仕組みを示し、理解を求めました。三鉄の幹部(現総務部長の菊池吉則さん)と沿岸各地の行政を回り、友人・知人を紹介し、「観光開発をしていこう」と呼びかけました。三鉄は自社だけで営業活動を続けていたのでは乗車率は伸びません。沿線の魅力をつくり上げ、それを外に向かって発信し地域全体が盛り上がる。そうなってこそ鉄道利用者も増えます。震災が来るとは誰ひとり想像すらしなかった時期でしたが、当時からそう考えていました。

「飲兵衛長屋」は海から数メートルの家だったため津波で流され跡形もない

三鉄を活用した新しいスタイルの旅行形態の開発こそが、岩手三陸復活の起爆剤になる。そのために重要なのは、企画力です。アイデアは、飲みの席から生まれました。

山口前社長とは、山田町の漁師の家によく遊びに行きました。その家は夜な夜な政治家や漁師、マスコミ、銀行員など多彩な人たちが集まる不思議な空間でした。「飲兵衛長屋」と呼んでいましたが、営業店舗ではありません。無料でそれぞれ好きなものを持ちこんでは一杯やる場所でした。

そんな場所で一つのアイデアが飛び出したのです。その名も、「三陸鉄道飲兵衛列車」です。

酒蔵のPRを聞きながら走る「三陸鉄道飲兵衛列車」が好評に

「飲兵衛長屋」の主人・佐々木生太郎さんが音頭を取り、早速車両を貸し切り、造り酒屋に協力頂き、宮古~普代駅往復の貸し切り列車を運行しました。海の幸を肴に、協力頂いた酒蔵のPRを聞き、列車に揺られての2時間の旅です。大きな評判を呼びました。何よりも今まで乗っていなかった沿線住民が参加しましたから、実に大きな効果です。評判を呼び、地元酒屋、ビールメーカーなどが協力を申し入れ、その後15回も続きました。

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