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コラム

脳のなかの金魚

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前回の記事「何か100%なものが必要であることについて」はこちら

クリエイティブ、アイデアを生みだすことは、そんなに崇高で、困難で、とりつくシマのない領域なのでしょうか?「神様」が降りてくる場所、天才の住む場所へ、ふつうの人が気楽に出かけていくためには。今回は、クリエイティブのブラックボックスをこじ開けます。

英語を知っているということは、一体どういうことなのか

中学3年間。高校3年間。こんなに長い時間かけて英語を勉強して、全然できない。しかも、そうとうアタマいい人でも。

勉強による習得物は、おおむね、“能力×意欲×投資時間×方法=結果“という方程式なので、この観点から言っても、日本人の英語力、世界びりっけつという現状は、かなり異常だ。

いったいなぜ?

今回この長年の国民的疑問に、答えます。
実は、理由は、ただひとつ。

中学高校の英語のカリキュラムは、どんなに努力しても、絶対できるようにならないように設計されているから。

それは、戦後のアメリカの対日政策による。

ずっと猿レベルと思ってきた日本人と、占領下初めて直に接して、その知的レベル、勤勉誠実等優れた内面性に驚愕したアメリカ人たちが、この上英語までできるようになったらやばい、と判断し、考えうる限りもっともダメな役に立たないカリキュラムを押し付けた。というのが真相。

かどうかは、もちろんわからない。いつ誰が言い出したかも、わからない。けれど、妄説・暴論と切り捨てられないある種の説得力がある。だって、そうとでも考えなければ、あの膨大な学習時間が、少なくとも実用面ではほぼ無駄だったことが説明できないから。

現在、アジアの人たちは、ほとんどみんなよくできる。ブラジル、アルゼンチンなどラテン系の人たちも全員。ヨーロッパ人、実はほぼ全員、少なくとも英語必要な人はみんな。自国語に誇りを持つあまり、わざと英語できないことになっていたフランス人も、ほとんどの人できます。かの有名なフレンチ・アクセントを絶対に直そうとしないところに、かすかなプライドを感じられるのだけれど。

「日本的な恥の感覚、完璧主義が、日本人の英語の上達を妨げている」と言ったのは、新渡戸稲造だった。彼の高い知見には、いつも首肯するのだけれど、この英語をめぐる見解には、やや首を傾げたくなる。

確かに、誰にでも話しかけられるキャラ、パブリックなところで大きな声を出せるキャラなどの方が、おおむね、英語向きだけれど(だいたい大きな口あけて、大きな動作で、大きな声出さないと、英語に聞こえないようになっている。原理的に)。とはいえ、日本人の美徳が英語のできない主たる原因とも思えない。
 
思い出すのは、あの英作文というシロモノ。内容、文章ともawfulだった。
 “トムは少年です。”
見ればわかります。ほとんどの場合。
 “机の上にあるりんごを熱心に見ているのは、あなたの母親です。”
うちのおかあさんは、セザンヌでも認知症でもない。
 “今テニスをしているとても背の高い女の子は、来年からニューヨークの会社で働きたいと思っている大学生の妹です。”
ずいぶん複雑な兄妹である。
 
英語という手段が、内容および知的レベルから切り離されて独立して存在しているわけではない。という当然のことがここではまったく忘れられている。英語がコトバである限り、その内容との相関においてのみ、技術としての英語が意味を持つ。

吉田健一が、すごんでいる。「日本語でも碌な文章が書けないものが、英語を知っているから英語の文章なら書けるというのが既に滑稽であるが、――」(『英語と英国と英国人』)。

要は、可能な限り内容空疎なプログラムこそ、この戦後政策の肝なのだろう。

上手下手が存在し、上達可能であり、伝授可能な習得法を技術と呼ぶとすれば、冒頭の方程式の中でも、“方法”が重要であることは明白である。この方法論上位の考え方が、今まで技術と呼んできた範囲以上に適用できそうだということを証明しつつある分野がある。

次ページ:「Creationのブラックボックス」


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