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コラム

藤村厚夫のメディア地殻変動

Facebookはメディアではない?テクノロジーとメディアは文化的に相容れぬのか

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【前回の記事】「メディアはどうすれば「PV」や「UU」といった「規模的」指標から脱することができるのか」はこちら

画像提供:shutterstock

Facebookはメディアではないのか

世界中で16億人もの月間アクティブユーザーを擁するFacebook。世界最大のソーシャルネットワークと言うことができるが、それは同時に現代のメディアを語る際に決して外すことのできない“世界最大のメディア候補”でもある。

たとえば、最近の調査では全米の消費者(成人対象)の4割強が、Facebookを通じて日々のニュースを得ていることからも、その規模と影響の大きさを想像することができるはずだ *1

図 1 全米の消費者の4割強がFacebookでニュースに接する〜Pew Researchより

そのFacebookを、筆者が世界最大の「メディア“候補”」と呼んだのには、わけがある。メディアであることをめぐり、Facebook自体が揺れているからだ。

今回のコラムでは、そのユーザー基盤において、メディアビジネスの将来を決めかねないFacebook、いや、さらにいえば米シリコンバレーを中心に形成されてきたテクノロジー文化が、メディア文化との間に引き起している文化的相剋に目を向けてみたい。

この8月末、イタリアを訪れたFacebook CEOのマーク・ザッカーバーグ氏は、現地の大学で行った学生らとの討論会のなかで、驚くべき発言を行った。学生からの「Facebookは、ニュース編集者になろうとしているのか?」との質問に対し、ザッカーバーグ氏は次のように答えたとロイターは報じている。

「いや、私たちはテクノロジー企業であり、メディア企業ではありません。私たちはツールを作りますが、いかなるコンテンツも作りません」*2

この発言がどうして“驚くべき”ことなのか?

それは、2014年11月に行われた、同氏にとって初となる株主やアナリスト向け公開討論で、次のような「未来の新聞」ビジョンを打ち出していたからである。

「私たちのゴールは、世界中のすべての人々に向けた、完ぺきにパーソナライズされた新聞を創り上げることです。パーソナライズすることにより、“あなた”にとって最も重要な関心事を表示しようと努めているのです」*3

図 2 2014年、Facebookはメディア企業宣言をしていた〜BusinessInsiderより

字義どおりにとれば、同氏は2年前には、メディア企業になるビジョンを宣言していたことになる。確かに、Facebookは当時もいまも、コンテンツを自ら「制作」することはしていないようだ。だが、「編集者」としてはどうだろうか。イタリアの若者はそれを問うたわけだ。

ここにFacebookが主張を後退させた一つの背景が浮かび上がってくる。ある告発を読んでもらいたい。

「十数名の記者が契約で雇われ、ニューヨーク支社の地下で働くことになりました。『2ヶ月半、会議室に缶詰だった』と振り返るのは元キュレーターのAさん。『ザッカーバーグがいつでも潰せるプロジェクトということだけははっきりしていました』『あれは自尊心もなにもない仕事でした。人として扱われなくて。ロボット扱いでした』と別の元キュレーターは言っています」*4

図 3 Facebookの「トレンディング」事件を伝える記事〜Guardianより

簡単に補足しよう。Facebookには、米国ユーザー向けに「トレンディング」と呼ばれる、話題のニュースを選択し、表示する機能がある。今年5月、このトレンディングのための労働環境が過酷なものであったと“告発”の声があがったのだ。期せずしてFacebookのニュース表示機能(の一部)に、人間による編集作業が行われていることが明るみに出たのだった。

この“Facebook人力編集”事件はさらに、思わぬ余波を生み出した。

今度は、そのニュースの選択、取り上げ方が政治的に偏っているのではないかと、米共和党の上院議員らが議会に調査委員会の設置を求めるなどの動きへと飛び火したのだった。

元々民主党寄りの姿勢が強い西海岸のテクノロジー勢力に対して、共和党は神経質になっていた。そこでFacebookは槍玉にあげられたことで、社会から思わぬ批判にさらされることになったわけだ。

結局のところ、Facebookはこの人力運用の「トレンディング」機能を見直し、システム運用に切り換えた結果、その業務に携わっていた15〜18人のスタッフは解雇されたという*5

優れたエンジニアらが生み出す高度なアルゴリズムを通じ、「完ぺきなパーソナライズ」を提供するはずだったFacebookのビジョンの中心部では、壮大な宣言とは裏腹に、綱渡りのニュース選択と配信が行われてきたというわけだ。

(注:Facebookの編集行為をめぐっては、最近、ピュリツァー賞受賞作品の写真を「児童ポルノ」として削除してしまうという“事件”が生じたが*6、本稿とは別の文脈での議論が必要になるため、今回は言及しない。)

この論では、Facebookをめぐるゴシップを語りたいわけではない。ここにテクノロジー文化とメディア文化、その葛藤が生じていることに着目したいと思う。

次ページ 「これからのメディア、だれがその中心に座るべきか」へ続く