コラム

藤村厚夫のメディア地殻変動

Facebookはメディアではない?テクノロジーとメディアは文化的に相容れぬのか

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これからのメディア、だれがその中心に座るべきか

改めていうが、その葛藤とは、メディア産業の作り替えをはらむ壮大なビジョンを育む一方、編集者や記者というメディア文化の体現者を狭い会議室に押し込め、過酷な労働を強いたりといった、一方の文化への尊敬の不足を露呈する悲劇を生んでもいる、という現象を指している。

筆者はかつて、米シリコンバレーを中心に誕生したテクノロジー文化と資金が、老舗メディアの買収や、新たなメディア起業ブームを生む中で、この文化的葛藤が災いし、それらプロジェクトがあえなく頓挫する事象が生じていることを論じた*7

たとえば、イーベイ創業者らが興した報道企業「First Look Media」や、Facebookの共同創業者が出資して自らも発行人に座った老舗メディア「The New Republic」の買収。いずれも深刻な内紛を引き起こしている。

後者では、記者や編集者が経営陣へ抗議しいっせいに退職する事態にいたったが、抗議活動に携わった一人が、次のように述べたことを再録しておこう。

「今週、TNR(The New Republic)を辞めた(著名なジャーナリストの)Julia Ioffeは、オーナーの(Facebook共同創業者)Chris Hughes氏や、CEOの(元Yahoo!幹部)Guy Vidra氏らに対して、『私たちは彼らのビジョンが何なのか知らない。それは、シリコンバレーのちんぷんかんぷんなバズワードで、何の意味もなさない』と啖呵を切った」(Storifyにまとめられたツィートより)

さて、そうならばテクノロジーとメディアはついに文化的に相容れぬ関係でしかありえないのだろうか?

もしそうなら、テクノロジーはつねに邪悪であり、メディアはその闘いに疲弊し、衰弱する一方だ、という紋切り型の図式にしかならない。

むろん、筆者はそうは考えない。メディアは、テクノロジー勢力が日々生み出す新たな技術とビジネスモデルへの挑戦の成果を経験値として、あるいはツールとして活用しながら、“これからのメディア”を創り上げなければならない。そのためにも、それぞれの文化を体現するヒトの交流、交配が欠かせない。

テクノロジー文化を担う人々がどのような職能を、メディア文化の中心部で果たせるのか。その具体的な働き方については、別稿に譲ることとして、ここでは、そのような人物を一人だけ紹介しておくことにしよう。

今年、筆者らが企画に携わったジャーナリスト向けイベント「デジタルジャーナリズム・フォーラム2016」がある*8。そのイベントに登壇した人物に米ヴォックス・メディアのグロース・分析担当ヴァイスプレジデントのメリッサ・ベル氏がいる(その後、同社の「発行人」に昇格している)。

同氏は元々ジャーナリズムスクールを出て、記者やコラムニストとして、インドの経済紙「ミント」やその後、米「ワシントン・ポスト」紙で活動しながら、衰退したジャーナリズム業界を救うにはデジタルの力に拠るべきと考えたという*9

図 4 「ジャーナリストからテクノロジストへ」メリッサ・ベル氏インタビュー〜WIRED日本版より

「オンラインジャーナリズムの問題がテクノロジーにあることに気がつきました。いい書き手はたくさんいるのに、それを適切なかたちで読者に届けることができていないのだと。その問題を解決するために、デヴェロッパーやデザイナーとともにプロダクト開発をしようと思ったことがキャリアの転身のきっかけです」

「パソコンオタクの父の影響で、7歳のときにはコンピューターを触っていました」と振り返る同氏が、データ分析、新たなコンテンツフォーマット開発などを通じて、ユーザー成長(グロース)をめざすいくつものプロジェクトを、編集者とエンジニアやデザイナーらとの架け橋となって遂行し、ついには同社の発行人の肩書きを持つにいたったのは象徴的なできごとだ。

エンジニア、データサイエンティスト、デザイナー、ユーザーエンゲージメント担当ら、テクノロジーマインドを有する人々と、良質な記事を発想し、書き続けるメディア人々を結びつけることのできる才能の発見こそが、いま、最も重要な課題だ。
Facebookをめぐり起きた一連の悲喜劇がそれを教えてくれる。

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