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【生活者の平成30年史】洋服はカルチャーの一部だと思う 菊池武夫

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※本記事は株式会社博報堂のコラムで掲載された記事を表示しています。

博報堂生活総合研究所(以下、生活総研)『生活者の平成30年史』出版記念企画のVol.3は、1960年代からファッションデザイナーとして活躍し、日本のファッション業界を牽引し続ける菊池武夫(きくちたけお)さんへのインタビューです。菊池武夫さんが過ごした平成という時代、そして、人々とファッションの関係性について、生活総研の鎌田淳上席研究員が聞きました。

左からインタビュアーの博報堂生活総合研究所 鎌田淳研究員とファッションデザイナー 菊池武夫さん

やりたいことをやっていたら、自然と時代にフィットした

—僕はちょうど平成元年に大学に入学したのですが、美術大学でファッションを専攻していまして。その時に憧れだった菊池先生にお会いできて本当に光栄です。今日は、ファッションだけでなく、時代そのものを創ってきた先生に、「平成」という時代について伺いたいと思っています。

菊池:ありがとうございます。僕は正直、時代を意識しているというより、自分がやりたいことをやっていたら、たまたま時代にピタッと合ってしまったというのが実際のところなんですね。この時代にこういうことをやろうなんていうことは、一度も思ったことがないくらいです(笑)。

—BIGI(ビギ)を設立されたのが1970年ですが、そのときも時代を意識して、ということはなかったのでしょうか。

1970年 BIGI設立当時のお写真

菊池:1968年、僕が29歳のとき、遅まきながら2カ月ぐらい海外へ出たんです。ヨーロッパからアメリカまで回って、世界のいろいろなファッションの動向を見ていたら、日本にはファッションの自由な活動が行われる仕組みがあまりなく、非常に範囲が狭いなと感じたんですね。それで、いま自分たちが思っていることを形にすれば、仕事になるんじゃないかと思って1970年にBIGIを設立したのです。現在のように情報が豊かでない時代ですから、ほとんど口伝えで日本中にBIGIの噂が流れた。店は原宿に1軒しかなかったのですけど、取引先も含めて、あっという間に皆さん興味を持ってくださったんです。

—自由なファッションを求めていた人々が、待っていました!と飛びついたんでしょうね。

菊池:たぶんそうなのでしょう。やっと自分たちが求めている洋服ができた、ということで、時代にピタッと合ったのかもしれません。

男性のファッションがカジュアル化し出したのは15年ぐらい前から

—BIGI設立5年後の1975年には、MEN’S BIGI(メンズビギ)を設立されましたが、当時のことを教えていただけますか。

菊池:今と違って、男物のファッションでカジュアルなんて僕らの時代はほとんどなかったですね。今みたいにカジュアルで会社へ行けるという社会状況でもなかったですし、スーツにネクタイなど必要なものはもう決まっているというのもありました。男物は、女性物の10分の1ぐらいの商品しか活力がなかったし、アイテム数もすごく少なかったですね。そういう幅が狭いところで、売れる数も予想がつかないですから、作る数と売れる数のギャップで在庫を抱えるという問題もありました。

1975年 MEN’S BIGI設立当時のポスター

—供給と需要のギャップによる在庫処理の問題は、今もずっと続いている課題ですし、あらゆる生産メーカーさんが抱える課題ともいえますね。ところで、今は、男性のファッションも当時からずいぶん変わってきたと思います。先生の実感として、男性のファッションでカジュアルなものが増えていったと思うのは、いつ頃からでしょうか。

菊池:僕はね、MEN’S BIGIの時代から、カジュアルなものをずっと作ってきたわけだけど、いつ頃からだろうな。カジュアル化し出したのは。たぶん15年ぐらい前かな、世界的に見ても。例えば、スーツ。スーツ自体もカジュアルになっていますから。芯が入ってないで、ペラ~ッと軽くつくる洋服になっています。生活がカジュアル化するのと同時に、仕事でもカジュアルなものが許される環境ができてきて、カジュアルな洋服も必要になっていったという感じですね。

—そういうカジュアル化の流れのなかで、先生は2005年、66歳の時に40ct&
525(フォーティーカラッツ アンド ゴーニーゴ)をスタートされました。どうして、このブランドを作ろうと思われたんですか。

菊池:僕の年齢に近い人の洋服をつくりたいと思ったのです。流行を早く取り入れなくてよくて、とんがってなくていい、少し安らぎも必要、そんな年齢の人の服。それと、体型が崩れても、その体型がよく見える、カバーできる洋服。

—確かに年齢的な体型の崩れはありますよね。太ったり、お腹が出たり。

菊池:僕は、体型がそうなってきたのを細く見せるなり何なりするテクニックはわかりますから、そういう洋服をつくりたかったのです。40ct(フォーティーカラッツ)という名前には、40歳以降にダイヤの重さのように、価値が違うのが価値だという思いを込めました。

洋服をカルチャーの一部としてデザインする

—先生は、コレクションを発表される際、非常にテーマ性の高いショーをされていましたよね。

菊池:そうですね。僕はショーをやるとき、いつも映画と同じようにストーリーを感じさせるものでありたいと思っていたんですね。だから、モデルがただ黙って歩いて戻ってきて、また服を着替えて出て行くということに賛成できなかったですし、きれいなモデルばかり出てくるというのも賛成できなくて。現実にはいろいろなキャラクターの人がいるし、そういう人に実際にショーに出てもらうということをやっていました。

僕は、洋服はカルチャーの一部だと思っているのです。だから、デザインするのは服だけれど、ショーで表現するものはそれを超えてカルチャーでありたい。今も変わらずそう思っています。

—よくわかります。先生のショーを見る度に、これから世の中はこういうふうになっていくんだという、文化がついてくるような感じがして、ワクワクしながら拝見していました。お洋服を作る以外にもさまざまな取り組みをされていますが、1996年(平成8年)には短編映画を撮られていますよね。

菊池:はい。僕が洋服を作っていていつも感じるのは、洋服は消えてなくなってしまうということなんです。ショーもほんの一瞬ですよね、通り過ぎてなくなってしまう。映像のなかに洋服なり自分の考え方を入れておかないと、残せないと思うのです。例えば、名作『カサブランカ』は映像が残っているから、僕らは今でもハンフリー・ボガードの洋服を見て、いいなぁ~と思えるわけですよね。自分がいま表現している洋服の空気感みたいなものを残したいと思って、映画を撮ったのです。

“情熱”から、“知性”で服を買う時代へ

こちらの記事の続きは、
博報堂のサイト「Vol.3【菊池武夫さんインタビュー】 洋服はカルチャーの一部だと思う —
ファッションの平成30年史」
で読むことができます。

菊池武夫(きくちたけお)
ファッションデザイナー

1939年東京都千代田区生まれ。1970年に(株)BIGI設立。1975年に(株)MEN’S BIGI設立。1984年TAKEO KIKUCHIを発表。一時ブランドを離れるが、2012年にクリエイティブディレクターに復帰。2015年に13年ぶりに東京コレクションにて自身のコレクションを発表。

 


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