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コラム

51歳CD、お寺のブランディング・ディレクターになる

西本願寺ブランド 決定タグラインを書かせた僧侶の思い

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タグラインのプレゼンが、“仏教対話”の場になった

「仏教の考え方でいうと、 孤独は否定しなければならないものではありません」

えっ。昨年8月。西本願寺の方々にタグラインを初めてプレゼンした時の、一人の僧侶の方の返答に、私は面食らっていた。提案に至るまでに考えていた土台が、ひっくり返ったような感覚を覚えた。

新しい西本願寺を伝えるためのタグライン(ブランドメッセージ)は、どうあるべきだろうか。変革の方向性が含まれたものを、とプレゼンまで1ヶ月の間考えていたが、前回のコラムにも書いた、僧侶の方々とのワークショップで聞いた「生きる上での悩みや苦しみに寄り添う」という言葉が頭から離れなかった。それは、政府も本腰を入れる、日本社会の孤独・孤立問題の状況があるからだった。

孤独・孤立対策推進法という法律が令和5年に成立していた。政府の孤独・孤立に関する実態調査では、孤独を感じる人が4割を超えたという。10年ほど前からメディアで使われるようになった「無縁社会」という言葉が、まさに現実のものとなっているように見える。調査によれば、相談相手がいない人、社会活動(社会交流)に参加していない人の孤独率は高い。「一生に寄り添う=Lifetime Temple」という使命(第3回コラム参照)の中でも、孤独に寄り添うことの優先順位をあげなければならないのではないか?かつては、つらい時、苦しい時の、駆け込み寺という言葉があった。

私はこれからの西本願寺の活動について、私のアイデアにすぎないが、おおよそ次のように想像していた:悩みや苦しみを持つ人、孤独な・孤立した人へ向けて、西本願寺の存在を知らせ、お寺に来てもらう。孤独な・孤立した人の不安や苦しみに、ただ耳を傾ける。西本願寺が主催する社会活動を創設し、その輪にゆるやかに入ってもらい、孤立を防ぐ。活発で活動的な門徒の方々や一般参加者の方々には、自発的に社会活動をリードしてもらう…。もちろん、お寺だけで全ての孤独が解決する訳ではないが、解決の一助になるのではないか、と。

1回目のタグラインプレゼン 思想にも表現にも気づきをもらう

そんなイメージを頭に広げながら、1回目のタグライン提案では、以下のように説明をした。「西本願寺はこれから、いかに生きるべきか、いかに死すべきか、その両方に寄り添うお寺になっていく。一方、現状では、いかに死すべきかだけに=お葬式やお墓だけの狭いイメージになりすぎている。だから、お寺がそもそも持っているのに今は意識されていない面、いかに生きるべきか、に寄り添う方に強くスポットライトを当てたい」。1回目のプレゼンで一推ししたタグライン案は、

生きると生きるをご縁でつなぐ。

というものだった。お寺に対して「生きる」に寄り添うイメージを強めたいという私の考えをもとに、お寺らしい「ご縁」という言葉が持つ人と人の出会いの意味、その出会いの場をプロデュースするお寺、という感覚で考えていたものだ。しかし、西本願寺のトップの方々からもらった言葉は、以下のようなものだった。

「原田さんの考えていることは分かります。しかし『生きる』に焦点が当たりすぎていて、『弔う』に命をかけている多くの僧侶の気持ちとずれてしまうと思う。」…確かにそうだ。インナーの人たちの使命感とずれた言葉を使っても、ブランディングがうまく行かない。

「そして、一番難しい部分は、仏教の考え方でいうと、 孤独は否定しなければならないものではありません。」え。思いがけない返答だったので、その時とても驚いた。「仏教には『独生独死独去独来』という教えがあります。人は本来孤独であるからこそ、人とのご縁のありがたさに感謝し、ご縁を大切にして生きることができる。それが仏教の考え方なんです。」そんな説明をもらって、勉強不足を痛感した。

「もっと、直接語りかけるような言葉はないでしょうか?なんとなく分かるんだけど、少しぼんやりしているように感じる。西本願寺にきてくれた人に、僧侶が直接語りかけているような、そんな言葉はないでしょうか」というコメントももらった。私は、一般的にタグラインはさまざまな活動をまとめて表現できるような、ある種の抽象度の高さが必要だと考えている。一方で、企業や組織の人格がタグラインの言葉から感じられないとダメだとも思っている。今の案では、お寺の僧侶のような人格が、言葉から感じられないということ。それでは足りない。

写真 堀川通りに向けて、昨年末から掲示されているメイン・タグライン
堀川通りに向けて、昨年末から掲示されているメイン・タグライン。

2回目のプレゼン 2つのタグラインが採用される

こんなコメントもいただいた。「お寺が“場所”だということを大事にする方向もあるのではないでしょうか。お寺としては積極的に“つなぐ”というよりは、“寄り添う”だと思う。もちろん来てくれた方々自身が活動的につながるのはいいことだけど、そうでない人も来れるような、さまざまな活動や施設のある、社会のセーフティーネットのような場所のイメージかもしれません」

そんな僧侶の方々との対話によって、私のイメージもずいぶん広がった。対話は仏教の魅力の一つだ。このプレゼンでは、案が採用された・されなかったというよりも、最初の案がきっかけになって、僧侶の方々との対話により、さまざまなことを学んだと思う。3週間後、再び、3つのタグライン案をプレゼンし、1案目をおすすめした。

人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。

誰もが、ただ、いていい場所。

無縁社会を、ご縁社会へ。

私は、上の3案に共通した考え方を説明した(※以下は私が説明した言葉で、西本願寺の公式見解ではありません):

「自分が孤独で、どうしようもない、もしそんな風に感じている人が現代にいたら、その人に届けたい言葉を書いた。800年前、はてしない孤独を感じ、自分の居場所を探し、迷い、さまよった人が、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(しんらんしょうにん)である、そう考えた。親鸞は、誰に会っても、孤独を埋めることはできなかった。しかし、出会った人々とのご縁の中で、自分の孤独をあるがままに受け入れ、その先に、浄土真宗を見つけたのではないだろうか。きっとひとりでは、そこまで辿り着かなかったのではないか。

そんな出会い=“ご縁”を大事にする考え方で書いたのが、“人はひとり。だからこそ、ご縁を見つめたい。”という言葉だ。このタグラインが目に入った日、あるいはその次の日、何かきっかけがあっても、なくてもかまわない、西本願寺にきてほしいと思う。なぜなら、“誰もが、ただ、いていい場所”、それが西本願寺だからだ。ただ大きなお堂の中で過ごしてもいい。境内で僧侶に出会って、気持ちが向いたら、言えなかった思いを聞かせてもらえたらうれしい。西本願寺は、出会いとご縁を大切にして、誰もが入れるようにしているお寺だからだ」

そんな私の説明の、部分部分の解釈についてはコメントをいただいたが、タグラインそのものについては、3つの案のうち「1つだけではなく、上の2つをぜひ使いたい!」と言ってもらえた。よかった!3週間考え抜き、磨き込んだ甲斐があった。タグラインが2つある・・というのはあまり聞いたことがないが、来た人に直接語りかけるようなメッセージと、お寺の場所性を表したメッセージを、西本願寺のイベントや時と場所によって使い分けていくというのは、悩みを持った方にメッセージする時もあれば、楽しいイベントもあるような、今の西本願寺に合っていると私も思った。

ちなみに3案目の言葉「無縁社会を、ご縁社会へ」は、私が記者発表会に出た時に、西本願寺の大きな考え方として話したところ、朝日新聞の記事の中で取り上げられた。やはり、社会的文脈を持つ言葉は、新聞記者の方の心に残るのかもしれない。

次回は、初めてのブランドマークをどのように考えたのかをお伝えしようと思います。

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写真 西本願寺の御影堂門に、昨年末から掲示されている、サブ・タグライン。お寺の場所性を大切にしたもの。
西本願寺の御影堂門に、昨年末から掲示されている、サブ・タグライン。お寺の場所性を大切にしたもの。