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コラム

宝島社の企業広告とは何だったのか

「噓つきは、戦争の始まり。」 宝島社が広告で問いかけた「平和」とは

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前回のコラムはこちら
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」タブーだった「死」に触れた広告

2023年12月に80歳で逝去した、宝島社の創業者である蓮見清一氏。“企業として社会に伝えたいメッセージ”を届けるべく、1998年から同社の企業広告を展開してきました。「蓮見氏の、宝島社の企業広告とは、はたして何だったのか」。宝島社の広告に10年以上携わってきた、電通のクリエーティブ・ディレクター/コピーライター 磯島拓矢氏が、名作を振り返りながら、共に企画を考えてきたからこそわかるその真意を紐解きます。

  • 前回のコラムで僕は
  • ・個人(=蓮見社長)が原稿を振り回すダイナミズム。
  • ・「個人的な思い」が世の中とシンクロする蓮見さんの天才性。
  • について、いくつか原稿を紹介しながら記しました。

今回は、蓮見さんが何度か取り上げた「女性」「平和」という、ひょっとしたら意外に思われるかもしれない2つのテーマについて、僕なりに記したいと思います。前回同様、各企業広告の成り立ちは、あくまで僕の想像と考察であり制作者のみなさんへの取材に基づくものではないことをお断りしておきます。スイマセン。

「女性」「男性」を超えて人を見つめることを試みた

宝島社はたくさんの女性誌を発行しています。豪華な付録をはじめとした独自のマーケティング戦略により、ファッション誌の販売部数で、なんとNo.1になりました(日本ABC協会「雑誌発行社レポート2022年下半期(7~12月)より」。ファッション誌の市場占有率が2010年以降22年までトップシェア)。その事実は「女性」というテーマで企業広告をつくるきっかけだったかもしれません。けれど広告の目的は、やっぱり自社の女性誌を売ることではなかったのです。ある時は問題提起をし、ある時は大胆に女性を鼓舞し、世の中の意識を変えることを目的としていました。何度も繰り返しますが、蓮見さんが行った企業広告は「企業の社会的姿勢を示すもの」であり、決して自社製品を売ることではなかったのです。

安野モヨコさんのイラストが美しい
「女性だけ、新しい種へ。」(2009年)


写真 実データ 「女性だけ、新しい種へ。」
企業広告「女性だけ、新しい種へ。」(2009年)。

今から15年前の原稿です。掲載時僕は、またしてもこの原稿のすごさを理解していなかったように思います。「“新しい種”とはすごい言葉を選んだなあ」と感心するところでとどまっていました。この原稿のすごさ、真意、そして新しさを理解したのは、2020年に僕自身が女性をテーマにした原稿を手がけた時です。その時のメインコピーはこちらです。

「次のジョブスも次のケネディも次のアインシュタインも、きっと、女。」(2020年)。


写真 実データ 「次のジョブスも次のケネディも次のアインシュタインも、きっと、女。」
企業広告「次のジョブスも次のケネディも次のアインシュタインも、きっと、女。」(2020年)。

この原稿のボディコピーを詰めながら、僕らは気付きました。

「誰もが日本社会の閉塞感、行き詰まりを嘆くけれど、それは違う。行き詰っているのは古い社会=男社会=ホモソーシャルだけ。女性たちは、決して行き詰まってなんかいない……」。

それは、15年前に蓮見さんとコピーライターから提示された「新しい種」という言葉の意味に、気付くことでもありました。

この言葉が提示していたのは「女性はもう、男性との対比で存在するものではない」という当たり前の事実であり、男社会(≒古い社会)から自由な女性こそ、これからの可能性(まさに種!)なのだ、という希望でした。

「女性差別反対!」を声に出すことは大事です。けれどそれは、一歩間違うと「男性と同等になること」が目的となります(もちろんそれは、ひとつの達成目標として正しいとは思います)。宝島社が提示した視点は、もっと大きかった。「女性は男性との対比で存在するものではない」この当たり前の事実を徹底した上で、古い社会でマイノリティであった女性を「新しい種」ととらえ、そこに、これからの希望を見出す。15年前に提示された考え方に、今ようやく世の中が追いついてきた。そんなことを思います。

「男でも、首相になれるの?」(2022年)。


写真 実データ「男でも、首相になれるの?」
企業広告「男でも、首相になれるの?」(2022年)。

この原稿は、メルケル氏が16年間首相を務めたドイツでの、小学生の素朴な言葉をそのままメインコピーにしています。女性という種が、ある国ではまさに希望となっていった事実を取り上げたものです。

振り返ると、蓮見さんが女性をテーマにした原稿を何度も採用されたのは、「女性差別」に関心があったというよりも、「女性か男性か」程度のことで人を判断するのが嫌いだったから、だと思います。 表面的なモラルの話ではなく、もっと根源的な「人として」蓮見さんが感じていたことのように思うのです。

それを示しているのが、20年以上前の傑作(とあえて言います)、「生年月日を捨てましょう。」(2003年)でしょう。


写真 実データ「生年月日を捨てましょう。」
「生年月日を捨てましょう。」(2003年)

この原稿はお気付きのように、もはや女性というテーマを超えて、人の属性すべてに疑問を投げかける原稿になっています。今回のコラムは、歴代企業広告の評価を目的としたものでは決してありませんが、この原稿は僕にとって、宝島社企業広告のベストです。

ビジュアルは美輪明宏さん。女性とか、男性とか、若者とか、老人とか、そういう属性は意味がない。すべての属性から自由になろう。人は生年月日さえ捨てることができる……。

すごいです。生年月日を捨てるんですよ……。

人が誕生する時、本人の意思とは関係なく与えられる様々な条件≒属性。いつ、どこで、どんな親から、どんな性別で生まれたか。それらは確かに僕らのアイデンティティではありますが、同時に足枷でもあります。それらすべてから、人は自由になれる。自由に生きることができる……。

こんなメッセージを出す会社、ありますか?こんな自由を「広告で」提唱する人、いますか?

「おじいちゃんにも、セックスを。」のころから蓮見さんが感じていたであろう「自分が高齢者になってゆく」「高齢者でくくられようとしている」感覚、その違和感、世の中との摩擦。それらを突き詰めると、こんなにも大胆なメッセージが生まれる。制作者と広告主の確かな共犯関係が、ここにはあります。この原稿を提案され、そこにGOを出した蓮見さんを想像すると、僕はちょっとドキドキします。これは蓮見さんが世に問うた、ある意味究極の問題提起であったと思います。

僕が10年経って「新しい種」の意味に気付いたように、きっと世界は、いつか「生年月日を捨てる」ことに目覚めるんじゃないか、それを実践する人が増えてゆくのではないか、僕はそんなことを夢想して、ちょっとドキドキするのです。

蓮見社長にとっての「平和」というテーマ

ロシアがウクライナへの侵攻を開始してしまったころ、僕らは戦争をテーマに企業広告を企画しました。プレゼン後蓮見さんは「このテーマは別チームで企画しているから、電通は別のテーマで!」とおっしゃいました。その時は「先手を打たれたか!」という実に広告代理店な気分だったのですが、原稿が出稿された時、僕はなるほどなあと思いました。メインコピーはこちらです。

「世界を敵にまわして、生き残ったヤツはいない。」(2022年)。


写真 実データ 「世界を敵にまわして、生き残ったヤツはいない。」(2022年)。
「世界を敵にまわして、生き残ったヤツはいない。」(2022年)。

やっぱり蓮見さんの「平和」への思いは強いなあと思いました。僕らが企画したものは、プーチン大統領を揶揄するものでした。権力者をこき下ろすものでした。でも、ちょっと違ったんですね。ロシアとウクライナの戦争において蓮見さんの大きな興味は「平和」にあったように思います。

もちろん完成した原稿にも「反権力」の要素はあります。けれどもそれ以上に「平和を取り戻す」ことへの願いが強い。美しい麦畑のビジュアルを見ながら、僕はそう思いました。

5年前のことです。電通からのアイデアに納得しなかった蓮見さんは、ダイヤモンドホテルのラウンジでこう宣言しました。「今度の企業広告のテーマは『嘘』でいく」。

僕の第一印象は「困ったなあ」でした。言うまでもなく嘘というのは悪いものです。「良きもの」「良きと思われているもの」を引きずり下ろすのは、驚きがあります。カタルシスがあります。つまり原稿として強くなります。

しかし「嘘」のように、もともと「悪」のものを、さらに叩いても面白くなりようがない……。困ったなあと思いながら蓮見さんと会話を重ねるうちに、僕はこんなことを口走りました。

「まあ、陰謀とか謀略とか隠蔽とかカッコつけて言いますけど、つまりは全部『嘘』ですからね……」。

それは実にクライアント(蓮見さん)におもねる広告代理店的会話だったのですが、言いながら僕は「あ、これはいいかも」と思ったのです。

「誤魔かすな、要は全部嘘じゃないか。人の一番の罪じゃないか」これは発見になれるな、これで原稿ができるな、と思ったのです。蓮見さんの思いを、僕なりに理解できた瞬間でした。その時の原稿のメインコピーがこちらです。

「噓つきは、戦争の始まり。」(2019年)。


写真 実データ 「噓つきは、戦争の始まり。」。
「噓つきは、戦争の始まり。」(2019年)。

誤魔かしの先に恐ろしい事態が待っていることを、蓮見さんは予見されていたのでしょうか。ロシアのウクライナ侵攻も、いくつもの嘘と誤魔かしの結果のように思えてなりません。

蓮見さんの中に「平和」というテーマがあることを最初に知ったのは、そのさらに2年前でした。この時も、僕らのプレゼンを聞いた後、蓮見さんはこう宣言したのです。

「今回は俺がテーマを出す。すごいぞ…次のテーマは世界平和だ!」。

僕の第一印象は、この時も「困ったなあ」でした。

言うまでもなく世界平和というのは良いものです。絶対善です。「良きもの」と思われている何かを引きずり下ろすのは、確かにカタルシスがあるのですが、どうやっても世界平和は引きずり下ろせない。引きずり下ろすべきものでもない。この絶対善をどう扱ったらよいのか……。困った僕らに追い打ちをかけるように、蓮見さんは続けます。

「ビジュアルは(広島に投下された)原爆だ!」。

実はこの発言の前、蓮見さんが広島へ行かれた話をうかがっていました。広島に行ったから原爆というのもシンプルだな……と思ったのですが(失礼)、実は昨年夏、僕は初めて広島へ行き、原爆ドームを目の当たりにし、オバマも立った記念碑の前に立ち(蓮見さんはオバマ大統領の話もしていました。広島来訪を評価していました)ようやく理解しました。「平和で行くぞ!」と言った、あの時の蓮見さんの気持ちを理解しました。

訪れたことのある方はわかると思います。原爆ドームには圧倒的なパワーがあります。あの日この場所で、自分が立っているこの場所で惨劇があった。人が殺された。その事実を体感できてしまうのです……。ああ、蓮見さんはここで「平和」というテーマを再確認したのだろうな。そして僕らにオリエンしたのだろう。僕らに託してみたのだろう。そう感じました。僕は原爆ドームの前で、7年前の蓮見さんの思いをようやく理解したのでした。

世界平和をテーマにした原稿のメインコピーがこちらです。

「忘却は、罪である。」(2017年)。


写真 実データ 「忘却は、罪である。」(2017年)
「忘却は、罪である。」(2017年)。

1945年の広島への原爆投下の様子と、1941年の真珠湾攻撃を並べたビジュアルです。世界平和を起点にしながら「忘れてはならないこと」という、もうひとつの視点を加えることで、絶対善に少し気づきを加えたつもりでした。

この原稿の感想を、蓮見さんに聞いたことはありません。正直話題性も、それほど高くなかったかもしれません。でも僕は、広島での経験も含めて、今この原稿が気に入っています。生きていく中で自分が感じたことを、原稿に活かす。広告という場で発露する。そんな蓮見さんだけが成しえたプロセスを、疑似体験できたからかもしれません。

3回にわたって、宝島社の企業広告について僕なりに記してきました。第1回の冒頭にも記しましたが、このような文章を書くのに僕がふさわしいかどうかはわかりません。ただ僕は、せっかく体験した何かを忘れたくない、文字に残しておきたいと思ったのです。まだ書き足りない気持ちもありますが、これ以上は、別れの挨拶をただ引き延ばすだけになりそうです。

蓮見さんは若い制作者が好きでした。若い人からの提案が好きでした。すっかりおじさんになってから参加した僕ですが、蓮見さんからは常に「新しくあれ」とお尻を叩かれていたような気がしています。

最後になってしまった2024年正月原稿3回目のプレゼン。ダイヤモンドホテルのラウンジで各案を見終えた蓮見さんはこう言いました。

「磯島君、今日はさえてるねえ」。

蓮見さん、僕はあの時、本当に泣きたいくらいうれしかったのです。

さようなら、蓮見さん。ありがとうございました。

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