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コラム

ガイシの夜明け

自分環境を開く格闘時代。

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辞めるのをやめた出来事

ガイシにきて驚いたのは、人が次々と辞めていくこと。全社メールで「本日が最終出社日です。みなさんの活躍を応援しています」などと挨拶して終わり。国内の広告会社では考えられないほどあっさりしています。また逆に、知らない人がいつの間にか座っています。まあ、僕もそのひとりとして映ったのでしょうけど(笑)。辞めることを強く止めない文化もあって、新規クライアントのオニツカタイガーを失った僕は、転職活動を始めました。とりあえずフリーランスとして会社を出ようと決め、フリー宣言のDMも刷りました。

そんな時です。突然フランス人のニコラ社長に呼ばれました。当時、彼は社長に就任したばかりで話したこともない、当然辞めることも言っていない。何だろう?ふらりと社長を訪ねると「噂を聞いた。ユーは本当に辞めるのか?辞めないでくれ」。え?なんで知ってるの?

後からわかったのですが、共に大志を抱いていた営業部長が社長にかけあってくれていたのです。少数精鋭であるガイシにとって、若いパッションある人間が辞めるのは会社の最大の損失。三寺の退社がきっかけでもっと多くの人間を失うことになる。

外国人の上層部はグローバルネットワークでの自分のステップアップのことを優先し、前線で苦労している現場日本人の言うことを軽視していると思っていたので、社長からその言葉を聞いたときには驚きました。とはいえ、辞めるべく動いていた僕は「ハイ辞めます。次も決まっています」とカマをかけました。すると社長は「どうすれば残ってもらえるんだ?」と歩み寄ってきたのです。退社を決意していた僕には失うものはない。この際、会社に対する不満を全てぶつけようと思い社長に手紙を書くことにしました。

7枚に及ぶ社長へのレター(嫁に協力してもらって英語で)には「国内広告会社からビーコンへ転職した想いと現実」「ビーコンでやってきた仕事とそれらへの弊害」を包み隠さず書きました。そして最後に、もしこれら全てを受け入れ、僕の良さや強みを生かせる会社へと変われるなら、考え直してもいいと条件を出しました。我ながらチャレンジングだったなと思います。

そして数日後「ユーの想いは無駄にしない。共に変えていこう」。社長が全てを受け入れたのです。

「商品開発部」として売り物を作る


カンヌ国際広告祭、アドフェスト、THE CUPでグランプリを受賞。人生の転機となったプロジェクト。


ガイシのクリエイティブエージェンシーには媒体を扱うメディア部署がありません。多くの場合ネットワーク企業や提携会社の中にメディアエージェンシーがあり連携をしています。しかし当時、それらの多くは、クリエイティブのアイデアや制作物ありきで動くスタイル。独自に媒体社と新しい商品(売り物)を作りクライアントへ提案するという大手国内広告会社のスタイルと異なっていました。前社では新聞社と密接な関係があり社内の媒体部から「こんな新しい媒体できたのでアイデア考えて!」とよく回ってきたものです。

「新しい商品を作る」。それこそビーコンに足りない部分だと思った僕は、クリエイティブのアイデアを商品化し提案していく社内プロジェクト「ビーコン・アクト」を立ち上げました。

コンセプトとしては、世の中に必要とされ、人を動かす魅力ある商品を生み出していく「商品開発部」。個人的なクライアントとのコネクションはもちろんのこと、世の中のトレンドや時事ネタを集め、その中から良いアイデア(商品)になりそうな案件を選び提案していく。僕は先の営業部長と数人の実動部隊と共に、定期的に自主プレゼンをしていくことにしました。社長はそれを全面的にサポートしてくれました。

その第一弾となったのが、財政破綻したばかりの北海道夕張市への提案でした。当時ニュースでは毎日夕張市の暗い話題が報じられていました。再生に乗り出したもののお金は無く観光PRなど出来ない状況。僕らはそんなどん底の状況にある夕張市をクリエイティブのアイデアで救えないかと考えました。営業の一人が夕張市の観光施設を全て買い取り街の再生に名乗り出た「夕張リゾート(加森観光)」と話をつけ、僕は得意のダジャレから「負債」と「夫妻」がかかっていることに気づき「夕張夫妻プロジェクト」が始動しました。このプロジェクトは、企画制作の全てをビーコン社持ち出しでやる代わりに、こちらのアイデアをそのまま実行するという約束のもと、約2年に渡り続きました。話せばコラム1回分くらいになってしまうのでまたの機会に紹介しますが、常に初めてのことにチャレンジし続ける刺激的なプロジェクトでした。結果、国際広告賞で大きな賞をいただき、会社としても大きなPR効果を得ることができました。もちろん社長は大喜びです。

他にも僕らはたくさんの自主プレをしてきました。例えばジャパネットたかたは、若手営業が宣伝会議賞で協賛企業賞を受賞したことがキッカケ。名刺交換をしていた宣伝担当の方と連絡をとり佐世保に乗り込みました。これまた運よく高田社長本人にプレゼンすることができ「これはおもしろいですよ〜」ということで、2年ほど広告制作をさせていただきました。

「CLUB BOSSカンファレンス」という画期的なサービスとの出会いもありました。キヤノンマーケティングジャパンがCSR活動の一環として主催しているビジネスマッチングイベント。キヤノンのOA機器を入れている企業を一堂に会し、それぞれを引きあわせて新たなビジネスへとつなげてもらうという試み。しかもBOSSという名の通り、役員以上が必ず出席するという。

実はこの話、ビーコンの総務部が持ってきた話なんです。「会社のOA機器をキヤノンのリースに変えたらここに参加できるらしいのですが、興味あります?あればその方向で調整しますけど…」。も、もちろん!!興味津々です!!

僕らは会長を人質にCLUB BOSSに参加しました。グランドプリンスホテル新高輪の大宴会場「飛天の間」はビジネスマンだらけ。250社ほどの企業が一堂に会し、そこかしこで集団お見合いが行われている異様な雰囲気でした。僕らは3社との面会を申し込み各社のアイデアを考えて持っていきました。一社につき20分間という時間制限のなか、社長や役員に対してそれぞれ熱いプレゼンをしました。ものすごく緊張しました。ワイシャツはビチョビチョでした(笑)。その後、一社ではポスターを制作でき、もう一社は大競合プレゼンに呼んでいただけました。

もちろん自主プレは、提案までこぎつけられなかったり、話を聞いてもらって終了したり、良い反応だったが何となく自然消滅したりということの連続で、そう簡単に制作までには至りません。でもビーコンという存在を知ってもらえただけでも貴重なことでした。何よりやっていて楽しいしどんどんアイデアが沸いてくる。僕の「勝手に自主プレ」は今でも継続しています。

「お初」なことに格闘し続ける日々


promoactivation

2010年カンヌ国際広告祭「PROMO&ACTIVATION」部門の審査員たちと。みんな一線で活躍する人たちばかりでした。


ここ数年「お初」なことに挑戦する毎日が続いています。なかでもカンヌやアドフェストなどの国際広告賞でグランプリを獲得したことは環境を大きく変えました。翌年の審査員に選ばれる可能性があることがわかり、僕は週2回、英語の個人レッスンを受け始めました。家でも通勤途中でも英語に浸かりました。とにかく1年間必死になって英語と向き合いました。全く英語を話せなかった僕ですから片言レベルまでにしか到達できていませんが(泣)。でも英語でコミュニケーションをすることへの恥ずかしさや苦痛は無くなり積極的に話すようになれました。おかげで海外に友達ができたり、グローバルの仕事が増えたり、社長とフランクに話すようになったり、今までとは異なった全く新しい世界が見えてきました。日本代表審査員たちとも仲良くなり、国内の広告会社にも多くの同志ができました。彼らにビーコンに来てもらい閉鎖されたガイシの環境に刺激を与えてもらう「刺激夜(しげきないと)」を開催したのも楽しい出来事でした。すいません、やっぱりダジャレが好きです。もちろんこのコラムもお初な挑戦です。

「環境は人が創ってくれるのではなく、自分で創り出していくもの」。僕は日々それを噛みしめながら生きています。制限やルールに固められたガイシの環境であっても、熱意と行動力で変えていける、そう信じています。「格闘時代」はこれからも続いていくと思いますが、衝突をチャンスと捉え、大好きな仲間と共に最高の環境を創っていきたいと思います。

最後に、3回にわたり過去を振り返ってきましたが、紹介した事例はあくまでも僕の仕事の一部であって、ガイシは揺るぎないブランドとの仕事があってこそ成り立っています。多くのチャンスをくれた方々に深く感謝いたします。と、何だか最終回的なノリになってしまいましたが、コラムはまだまだ続きます。次回からは、ガイシの今を旬な情報と共に紹介していきたいと思います。

三寺雅人 「ガイシの夜明け」バックナンバー