企業広報マンの見えない敵との心理戦
今から10年ほど昔、製パン業界で伝説の広報マンが存在した。事件は突然始まる。A社の製造した菓子パンに2週間に渡って毎日開始される悪意の異物混入事件だった。異物はカッターナイフの刃、決まって販売店舗の現場で菓子パンに包材外部からねじ込まれていた。
毎日菓子パンの種類が変わり、混入された場所も4都県、14市区にまたがっていた。当初所轄警察署は悪質な異物混入事件として犯人逮捕を捜査刑事に厳命していたが、毎日所轄エリアを超えた場所で事件が発生し、捜査は混乱していた。
さらに、異物が混入された販売店舗はいずれも大規模小売店舗で、顧客の出入りが激しく監視カメラでは犯人を特定することは不可能だった。しかも犯行は夕方から夜にかけて特に込み合う時間に集中していた。犯人は予想以上に頭のいい人間だった。
最初の混入事件発覚の際には、毎日犯行が継続されるとは予想していなかった。むしろ大規模小売店に恨みのある者が、たまたまA社の製品を利用したにすぎない可能性もあると考えていた。司法当局はすぐにも犯人から何らかの要求が関係者にあるか、1~2週間以内にさらなる犯行が行われる可能性を指摘していた。
しかし、大方の予想をあざ笑うように、犯行は毎日A社だけをターゲットとして計画的に行われた。かつて日本でこれだけ継続的に「声明または要求なしの異物混入」が行われたことはない。捜査関係者を含め、犯人の意図が読めなかった。3日目の犯行が確認されたとき、刑事の一人が「愉快犯の犯行だ!」とつぶやいた。
「このような卑劣な犯人を野放しにしてはいけない」 司法当局からの強い思いが企業経営陣の心を揺り動かしていた。3回目の混入が確認された時点においても、マスコミは本事件に気づかず、世間にも隠されていた。大きく騒ぐことは愉快犯を鼓舞させることにほかならず、事件の長期化を予想させたからである。そのせいもあってか経営陣はこの事件がそれほど大きな問題になる前に司法当局によって必ずや犯人が逮捕されるものと信じて疑わなかった。
7回目の混入で一部のマスコミに知られた。消費者の中にも会社に問合せしてくる者が増えてきた。世間に知れるときもそう遠くない。社長が緊急取締役会の開催を要請した。本事件の公表の判断を行うためである。
この日の取締役会は、議論を重ねたが結論に至らず、司法当局を信頼し、さらにもう3日間様子を見て判断しようということになった。10日目が経過したが、事態は一向に変わっていなかった。依然として毎日愉快犯による犯行は冷徹に繰り返されていた。証拠を残さず、犯行声明もA社への要求もなかった。
既に最初の犯行からちょうど2週間が経過していた。地元新聞社の報道から数日が経ち、いつ自分の地域の小売店に異物が混入されるか、消費者は心配と不安で戦々恐々となっている。協力的な小売店はそれでもA社の製品を陳列していてくれたが、消費者の買い控えは確実に進行していた。
A社の広報マンは、これ以上の対策の放置は会社の致命傷となると考えていた。危機管理の専門家がアドバイスした方法は前代未聞であった。長い間広報を担当してきたが、そんな方法は聞いたことがない。専門家がアドバイスした内容は概ね以下のようなものだった。
A社は、悪意の第三者による卑劣な犯行の対象となり、これまでに14回製造する菓子パンに異物を混入されてきたこと、司法当局に捜査協力してきたが、あえて経緯と状況を本日開示し、全国民に対して小売店鋪内での不審人物の発見、警察への摘発を呼びかけるセンセーショナルな内容で、これを大手新聞社と地方紙の謹告欄に緊急告知として掲載するというものだった。
この内容を裏返せば、犯人に対して、犯罪を犯せば全国民が犯行の目撃者となり、すぐにも逮捕されるぞ、と言わんばかりの告知である。プロファリングにより犯人像が絞り込まれた今、この内容を開示すれば気の小さい犯人は、犯行を停止し逮捕は限りなく難しくなることは必至、司法関係者にとっても判断が迫られる告知であった。
紛糾した取締役会が終わり、司法関係者とともに全員が会議室から出てきた。日本で最初の緊急告知が決定した瞬間だった。犯人へのメッセージが翌朝の朝刊に掲載された。マスコミ各社が取り上げ、反響は大きかった。同時に犯人の犯行も止まった。その後二度と犯行は起きなかった。広報マンの英断に対して、業界ではこの緊急告知は未だに伝説として語り継がれている。
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