コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

メディアという観測者なしには世界は立ち上がらない

share

さて第2回は、業界誌というものに見る「メディアの生態系」と「メディアがあることの意味」について考えたいと思います。

インターネットが普及する前は、各趣味のジャンル・業界ごとの専門誌が、メディアの中で、最も多種多様な媒体が共存し、小さな組織が、小さな部数で、小さな業界から広告費を貰いながら、特定少数の読者に情報を届けていた領域でした。つまり、アマゾンのジャングルや、熱帯のラグーンのように豊穣で、「生物多様性」が確保された、「生態系」が存在していたのです。

趣味やレジャーには、それぞれの専門誌があります。例えばゴルフ誌です。ゴルフ誌の中には、発行のたびに中吊り広告を打つような媒体もありますから、専門誌としては最大・最強のジャンルの一つといえます。ゴルフほどまでは行かないものの、例えばサーフィン専門誌も、多数存在します。サーファーが通う千葉の九十九里沿いのコンビニでは雑誌コーナーのかなりのスペースがサーフィン専門誌で埋め尽くされていたりします。

ゴルフやサーフィンに比べれば、グッとマイナーになってきますが、スケボーの専門誌もあります。実際に、『SKATEBOARDING JAPAN』という雑誌が隔月で販売されています。
きっと駒澤公園などに集うスケボー少年たちが読んで、トリックに関するウンチクや新しいスケートボードの発売情報、スケボーをやるのに適したスポットの情報を得たりしているのだろうと思います。

盆栽の世界にも専門誌。

若者向けでなく、シニア層向けもあります。日本には、盆栽という伝統ある趣味があり、当然そこには、盆栽専門誌というものもあるわけです。しかも、1誌でなく、『盆栽世界』と『近代盆栽』の少なくとも2誌が月刊で発行されているようです。

要するに、釣りや料理はもちろんのこと、麻雀、鉄道模型、アウトドアから、果ては茶道に至るまで、およそ、趣味・一つのモノごとのジャンルには必ず「専門誌」が存在してきたのです。これは、ちょっと大型の書店に行って専門雑誌のコーナーを巡れば一目瞭然でしょう。

さて、ここで質問です。
例えば「缶けり」にはそういう意味での専門誌が存在するのでしょうか?
少なくとも私が調べた限り、「缶けり専門誌」というものは見つけられませんでした。
缶けりとスケボー、盆栽、茶道の違いは何でしょうか?競技人口という意味では、缶けりをやったことのある人数の方が、スケボーより多いかもしれませんから、必ずしも読者の人数の問題ではなさそうです。

ここで、私が指摘したいのは、広告主となる業者、取材対象となりコンテンツを供給する専門家の集合体としてのいわゆる「業界」の有無です。ゴルフやサーフィン、スケボー、盆栽、茶道にあって、缶けりにないものとは「業界」なのです。あるジャンルが「業界」として成立するかどうか?とそこに専門誌が存在するかどうか?はコインの裏表の関係と私は思っています。

ゴルフは言うに及ばず、スケボーにも大きくはありませんが、スケボー業界というものがあります。スケボーそれ自体やスケボーファッション・グッズを売るショップがあり、スケボー少年の頂点として、周囲からその技量を尊敬される「プロ」(的な人)がいるわけです。盆栽も同様です。ハサミや肥料などの園芸グッズを売る盆栽園芸の業者がいて、コンクールに自慢の一鉢を出品して賞を取り、その熱意と技量、知識を尊敬されるエキスパートがいるわけです。つまり、競技スポーツ的な意味で「プロ」と呼ばれるかどうかは別にしても、それでメシを食っている関係者がその周辺に少なからず存在しているわけです。業界が存在するとは、つまりはそういうことです。

ところが、缶けりには、缶けり業界などなく、それを仕事とし、それでメシを食っている人間がいません。ゆえに、缶けり専門メディアを立ち上げようが、広告費を貰える業者を探したり、取材対象となるような人・コンテンツを見つけるにも困難を極めます。それがゆえに、缶けり専門誌は存在しないのです。また、一見、奇妙かつ逆説的に響くかもしれませんが、適切な形での缶けり専門誌が、存在しないがゆえに、「業界」としての缶けりも立ち上がらない、とも言えます(この逆説を理解してもらうことが今日の本題です)。

一時期、都市近郊の森林などで、サバイバルゲームをやることが、サラリーマンの間でちょっとしたブームになりました。いい年こいて「戦争ごっこ」かよ、と言えなくもないわけですが、実際に流行ったわけです。筆者が数年前に勤めいていた会社では、週末にサバイバルゲームの集いが何度も行われ、対抗戦などもあったと思います。サバイバルゲームの場所(フィールドというらしい)を提供する専門業者もあるようですから、そこにはサバイバルゲーム業界(=「戦争ごっこ」業界)があると言えなくもないわけです。

そのように考えれば、「缶けり」も、例えば、自然に溶け込みつつ、スリルも味わえる、エコでロハスなレジャーというようなパッケージングで提案し、新規にメディアを立ち上げたら、ひょっとしたら、「缶けり業界」が、小さいながらもできないとも限りません。(いまやツリーハウスの専門ムックがあるくらいなのですから・・)

yogini

『yogini』の創刊号。

メディアの誕生が、ほぼ同時的にある種の「業界」を作ったと筆者が思っている好例をあげましょう。1990年代においては、ヨガは、オウム真理教が信者の勧誘に利用したこともあって、かなり怪しいイメージが付きまとう、普通のOLには縁遠いものだったと思います。ところが2004年に『Yogini』という雑誌が枻出版から創刊されて、インド系だったヨガの「怪しい」「怖い」イメージは、アメリカ経由でのオシャレでヘルシーなイメージに一新されます。『Yogini』からは、若いOL向けに、リラックスしながら自分の内面を見つめ、美容やダイエットにもよく、心身ともにヘルシーになるエコでロハスなエクササイズ、という新提案がなされたわけです。

これによって、それまでのスポーツジムでのエアロビやウェイトトレーニングというものに「ちょっと・・・」と思っていた若いOL層などの潜在的な健康・美容ニーズが顕在化します。街には、ヨガスタジオが雨後のタケノコのように増え、スポーツメーカーはヨガウェアを発売し、自宅でもヨガをやるために、教則本や教則DVDも多数発売され、さらにはヨガスタジオでヨガを教えるトレーナーも不足したのでしょう。ヨガのトレーナー資格を取るために、海外のヨガスクールに通う女性までも少なからず発生しました。ついには、菅野美穂や中谷美紀のような有名女優までがインドにヨガ修行の旅に出かけ、それによってまたフォロワーとしてのヨガ入門希望者が増えるという循環が生まれたわけです。

つまり、『Yogini』のような女性向けのヨガ専門誌ができたことで、女性向けの健康法・美容法としての「ヨガ業界」が立ち上がったとも言えます。(実際の市場規模の拡大については下記参照)

第一生命経済研究所 経済調査部 マクロ分析レポート(2005年5月18日発表)より

2005年5月に発表された第一生命経済研究所のレポートによれば、2004年時点での日本のヨガ人口はすでに23万2448人、ヨガ人口と平均的な授業料(月5000円程度)をもとに計算した市場規模(売上高)は139.5億円と推定している(関連商品市場を含めると151.1億円)。さらに今後、日本でも米国と同程度のペースでヨガ人口が拡大していくとすれば、2015年には、ヨガ人口が351.3万、市場規模は2107.6億円となるとの見込みを示している。

ここで是非、皆さんに認識してほしいことがあります。先にヨガ「業界」があって、広告ニーズが豊富にあり、取材対象としてのコンテンツが豊富にあったから、『Yogini』が創刊されたわけではありません。『Yogini』が創刊されることで、ムーブメントがおこり、広告主も増え、実際にヨガ関連におカネを落とす女性が増えた、という形できちんとおカネが循環するサイクルが生み出されたのです。

直近でも、『BRUTUS』のシェアハウス特集というものがありました。この特集によって実際に、シェアハウスに住んでみたいというニーズはさらに増えたでしょうし、例えば、親から相続した空き家を抱えているような人の中には、「うちもシェアハウスを開いて空き物件を有効利用してみるか!」と思い立った大家候補や、「よし俺はシェアハウス専門の不動産業者になるぞ」と思った人もいるのではないでしょうか。

夜空を見上げれば、宇宙には無数の星が輝いています。そんな夜空の中に、天文学者や天文マニアが、新星を発見することがあります。しかし、よく考えてみれば、当たり前ですが、発見された星それ自体は、ずっと以前から夜空のどこかで光り輝いてきたわけです。ところが、人類にとってみれば、天文学者によって発見され、名前を付けられて初めて、その存在が認識可能になります。

つまり、天文学者という意思を持った観測主体が、望遠鏡という媒介(メディア)を通じて発見しなければ、そこには星は存在しないのと同じです。

同じことが、メディアの世界においても言えます。創刊された『Yogini』を見て、あるいは『BRUTUS』のシェアハウス特集を見て、初めて「あ、私もやってみたいかも」と消費者はそこに自分の欲望を発見したわけであり、ヨガ市場やシェアハウス市場が発見されたわけです。そして喚起された潜在的な欲望が、製品・サービスへの需要として顕在化され、さらにはメディアが介在することで、供給自体も刺激され、そこに好循環の結果としてのヨガ業界やシェアハウス業界の成立をみるわけです。

サーフィン、スノーボード、山ガール、ツリーハウス、あるいは初期のインターネットなど、いわゆる「ブーム」として括られるようなムーブメントの多くはこのようなプロセスを経ていると思います。

ことほどさように、メディアという「観測者」「紹介者」と「取材対象」としての「業界」とはコインの裏表の関係にあります。専門メディアと特定業界とは共犯者であり、運命共同体なのです。
(これは「広告代理店が作ったブーム」とか「ステマ」とかそういうことでなく、永く続いてきた大衆消費社会とメディアとの関係性の根源的で普遍的で宿命的な「お約束」であると思います)

業界とは、たとえ小さくともそれを「生業」にするものにとっては、世界です。
つまり、メディアという観測者なしには世界は誕生せず、メディアという共犯者なしには、世界は成長して行かないのです。

だからこそ、メディアという存在は、特別と言って語弊があれば、特殊な立ち位置にあるものであり、そこにはそれ相応のモラル・責任が求められると私は思っています。

次回は、そんなメディアというものの特殊さを表す例として「(メディア上での)予言が自己実現する」ことについて考えてみたいと思います。

田端信太郎「メディア野郎へのブートキャンプ」 バックナンバー

もっと読む

Follow Us