メディアから企業広報に転じて3カ月「取材される側」となり思うこと

1960年代まで、新聞社の屋上には鳩小屋があって、そこで何百羽もの伝書鳩を飼っていた。メールどころかファクスもなかった時代、遠隔地から速報記事を送るときには、その伝書鳩が活躍したという。

「嘘だろ?」と思った方は、「新聞 鳩」でググってみるといい。分からないことがあればすぐググれる、便利な時代である。

私が社会人になった1989年は、さすがに同僚に伝書鳩はいなかったが、まだインターネットもなかったし、携帯電話もなかった。何か調べ物をするときは、書店や図書館に行くか、あるいは知っていそうな人に聞くしかなかった。「あの映画に出ていたあの役者の名前がどうしても思い出せない」なんていうときも、夜中だろうが友達に電話したものだ。もちろん“イエ電”に。

自分自身、もはや当時の暮らしなんて忘れかけているが、インターネットの登場によって仕事も生活も一変した。そしてメディアと企業、とりわけ企業広報のあり方も当然、大きく変わっている。

「深澤、日帰りでシアトルまで行ってきてくれ!」

1995年の年末のことだった――(あ、ついつい昔話のレベルが20〜30年前になってしまうのはご容赦いただきたい。何かというと昔話をするオジサンが嫌われるのは承知しているが、このコラムをわざわざ読もうという方には同世代が多いだろうという推測の下、ノスタルジーのご提供の意味も込めて、あえて四半世紀前の話題を挙げている)。

「深澤、日帰りでシアトルまで行ってきてくれ!」と、副編集長の命が下った。何やらマイクロソフトが本社のあるシアトルに世界中の報道関係者を集めて、インターネット戦略について1日がかりで説明するイベントを開くというのである。イベントがあるのは現地時間の木曜日。それを取材して、とんぼ返りで翌週の月曜〆切で記事を入れろとのこと。せめて1泊させてと懇願し、1泊3日の弾丸取材ツアーが決行された。

当時、マイクロソフトは、ウィンドウズ95を発売(英語版は95年8月、日本語版は同年11月)し、パソコン市場の巨人という地位を確保していたが、インターネット事業では後れをとっていて、ブラウザでは最大手のネットスケープ社が「第2のマイクロソフト」なんて呼ばれていたりした。そこで、「今日からインターネットに本気出す」という宣言を、世界に発信するというわけだ。

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深澤 献(TBM ブランド&コミュニケーションセンター長)
深澤 献(TBM ブランド&コミュニケーションセンター長)

ふかさわ・けん/広島県出身。株式会社TBMのブランド&コミュニケーションセンター長。1989年ダイヤモンド社入社。『週刊ダイヤモンド』でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりサブスクリプション事業や論説委員などを経て、22年2月に新素材スタートアップのTBMに転じる。著書に『そごう 壊れた百貨店』『沸騰する中国』(いずれもダイヤモンド社刊・共著)など。趣味はマラソン。

深澤 献(TBM ブランド&コミュニケーションセンター長)

ふかさわ・けん/広島県出身。株式会社TBMのブランド&コミュニケーションセンター長。1989年ダイヤモンド社入社。『週刊ダイヤモンド』でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりサブスクリプション事業や論説委員などを経て、22年2月に新素材スタートアップのTBMに転じる。著書に『そごう 壊れた百貨店』『沸騰する中国』(いずれもダイヤモンド社刊・共著)など。趣味はマラソン。

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