企業の競争力を測る上で、従業員が持つ知識やスキルといった「人的資本」の重要性が広く認識されるようになりました。この流れを受け、自社の人的資本に関する情報を開示する企業が増えています。その主な目的は、投資家からの市場評価を高めたり、優秀な人材を惹きつけたりといった、社外の関係者に向けたものが中心です。
その一方で、見過ごされがちな視点があります。それは、開示される情報の受け手の一人である、自社の「従業員」の存在です。報告書に記載される様々な取り組みや数値は、日々現場で働く従業員の目にも触れます。本稿では、この問いから出発し、人的資本開示が従業員に与える影響を考察します。情報開示に伴う潜在的なリスクを乗り越え、企業と従業員の双方にとって価値あるものにするために、目指すべき姿とは何かを論じていきます。
企業が人的資本開示に期待する効果
企業が人的資本開示に力を入れる背景には、企業価値の向上につながる効果への期待があります。その効果は三つの側面から整理することができます。
第一に、市場からの評価向上です。投資家は、企業の持続的な成長可能性を判断するため、財務情報だけでは捉えきれない人的資本に注目しています。研究によれば、投資家は人件費や教育研修費を、将来の価値を創造するための「資産」への投資として評価する傾向があります。実際に、労働効率性といった投資効果を示す情報を自主的に開示している企業は、市場で高いパフォーマンスを示すことが明らかになっています。
第二に、採用競争力の強化です。労働人口が減少する現代において、優秀な人材の獲得は企業の存続に関わる課題です。求職者は給与といった条件だけでなく、企業の文化や多様性といった要素を重視するようになっています。ある実験では、求職者は企業の多様性に関する情報を就職先選びの判断材料として活用することが示されました。自社の取り組みを具体的に示すことは、人材獲得競争を優位に進めるための力となります。
第三の効果は、社会的な信頼の獲得です。企業が従業員の教育や労働安全といった情報をつまびらかにすることは、従業員を大切にするという姿勢の表明に他なりません。このような情報は、企業が社会的責任を果たそうとしている証と見なされ、投資家だけでなく、顧客や地域社会といった様々な関係者からの信頼醸成につながります。
開示がもたらす潜在的な問題
人的資本開示は企業に有益な効果をもたらす可能性がある一方で、問題点も存在します。それは、開示された情報と、社内の従業員が日々感じている現実との間に「乖離」が生じた時、従業員の信頼を損ない、意欲を低下させてしまうという危険性です。
この問題を端的に示す研究結果があります。日本の上場企業を対象としたある調査では、「人的資本に関する情報の開示が進んでいる企業ほど、従業員のエンゲージメント、すなわち仕事への熱意や貢献意欲が低い」という関係が見出されました。透明性を高める取り組みが、なぜ従業員の意欲を削ぐという結果を招いてしまうのでしょうか。
その原因は、開示情報と社内実態との間に存在する溝にあります。例えば、企業は時に、自社のイメージを守るために情報を操作します。ある調査では、人員削減を進める企業が、その裏側で従業員との良好な関係性を強調する情報を選択的に開示していた実態が明らかになりました 。これは、社会的な批判を和らげるための戦略的な行動と考えられます。統一された報告基準がない現状が、企業が自社に都合の良い情報を部分的に開示することを可能にしています。
こうした背景から、報告書の内容と従業員が現場で体験する現実との間に乖離が生まれます。例えば、会社が「男性の育休取得率90%」や「充実した研修制度」をアピールしていても、現場では「無理に取得させられて残ったメンバーの業務が逼迫している」「研修を受けるための残業が発生している」といった矛盾が生じているケースがあるかもしれません。このような実態と乖離した情報は「会社は私たちのことを見ていない」「また体裁の良いことを言っているだけだ」といった冷笑的な態度を生み、組織の士気を低下させます。この事実は、投資家や求職者以上に、自社の従業員が開示される情報を厳しく見ている存在であることを物語っています。