箭内さん!入社から7年間、暗黒の時代があったって本当ですか?

【前回コラム】「箭内さん!大学でどんなことを教えているんですか?」はこちら

ソーシャルグッド広告賞、「渋谷のラジオ」、0円の仕事チームづくり無茶振り服装貧乏だったこと理想の上司・先輩悩み准教授を務める東京藝大のこと……。このコラムを通じて、箭内さんに広告やクリエイティブのこと、いろいろ教えていただいてきました。いよいよ最終回です。箭内さん、何かこの場で言い残したことはありますか?

「感謝」したいですね。陳腐すぎるかもしれないけれど。

—感謝ですか?

はい。さまざまなターニングポイントもあった中、仕事は一人でやるものじゃなくて、たくさんの人との出会いと支えがあってこそのもの。皆さんもそうだと思いますが、その数々に感謝しながら、この連載の幕を一旦閉じたいなと思いました。

本来なら、例えば、僕が考える広告の未来を話して終わったほうが、最終回らしいんでしょうけど。

—確かに、最終回っぽくはないですね。それで、箭内さんはここで誰に感謝しますか?

もちろん、これまで出会ったすべての人に感謝したいのですが、いま改めて感謝したいのは、1990年に博報堂に入社して最初に配属された部署の上司、千葉篤さんです。

僕はこれまでずっと、過去のインタビュー等々で、博報堂入社からタワーレコードの仕事が始まるまでの7年間を「暗黒の時代」と呼んできました。その間、形になった仕事はほとんどなく、会社にも記録や資料は残っていません。その期間の上司が千葉さんでした。

「辛かった。千葉さんを恨んだ」みたいな話を、インタビューで何度かしたことがあります。でも、千葉さんがどこかで、それを読んでいるかもしれないなと思ったときに、本当に辛いだけだったかなと考えると、千葉さんが教えてくれた広告の背骨というか、制作の足腰というか、それはとても大きかったなと、今となっては思うんです。

千葉さんは、自分のことをすごく大事に育ててくれて、だからこそ、若い僕は反発することもあった。とは言え自分は弱腰の平和主義者なので、その反発を表に出すのはすごく嫌いだったんです。

—では最終回は、箭内さんが就職してから7年間の「暗黒の時代」の話を伺います。ちょうど今、そんな時期を過ごしている読者の方もいるかもしれません。箭内さんは面接でギターを弾いて、優秀な成績で博報堂に入ったと聞いたことがありますが。

ギターを弾いたのは事実ですが、最終の重役面接(当時の副社長、人事局長、制作担当役員)の点数は最下位。入社後、制作担当役員からそう聞かされました。副社長と人事局長の評価が最悪で、制作担当役員が「責任を持って育てますから」と説得してくれて、ギリギリでの逆転合格だったそうです。「広告でみんなを幸せにしたい」と言った僕に、「君はうちに来たら挫折するよ」と副社長が言った最終面接でした。

入社すると、3浪で4月生まれの僕は同期の中で最年長。弟より年下の同期に呼び捨てにされるような具合でした。時はバブル絶頂期、新入社員の人数は博報堂史上空前絶後の150人にのぼった年です。そんな時代だったから、制作担当役員も僕をねじ込む余裕があったんだと思います。2年上にはコピーライターの前田知巳さんがいて、1年上には佐藤可士和さんがいて、「2人より誕生日の早い僕が、先に定年退職の日を迎えるんだなあ」なんて苦笑いしたのを覚えています。

自分で自分につけたキャッチコピーは「フリガナのなくなる日」。ほとんど誰も読めない苗字を世の中に広く認識されるくらいの仕事をするという宣言です。同期全員が揃って自己紹介した際の挨拶で言ったのは、「博報堂に入っても、ミュージシャンになる夢はあきらめていません」。ギラギラしてたというか、情熱が完全に空回りしてたというか、そんな新入社員でした。同じ90年にプロ野球入りした野茂英雄投手を一方的に強烈に意識したり。制作局の歓迎会の壇上で「やがて自分は絶対、社長になります!」と挨拶して大ブーイングを浴びたのを覚えています。

入社研修が終わり、自分がどこの部署に配属されるのか、それがとても気になりました。行く先によって、担当得意先や仕事の華やかさは大きく違ってくる。配属発表の日を迎え、僕が配属されたのは第五制作室という制作室の、千葉グループというグループ。大貫卓也さんがいた宮崎(晋)グループや、安藤輝彦さんのグループなどの“華やか系”ではなかったことがとてもショックでした。今思えば、完全な他力本願なのですが。

千葉グループでの最初の仕事は、ドライヤーズアイスクリーム。日商岩井がカリフォルニアから輸入したアイスクリームです。競合プレゼンに勝って、ビギナーズラック的にうまくいった仕事だったんですが、その直後から長い長い暗黒時代に入ります。仕事が来ない、プレゼンに勝てない、鳴かず飛ばずの時期を千葉さんの下で過ごしながら、同期や先輩・後輩が、どんどん華やかな仕事をしていくのを見るのは正直、とても辛かった。1年働いて成果物が何もない。印刷されたものが雑誌1ページすらない、そんな時期が長く続きました。

そういえば入社1年目、千葉さんとこんな会話がありました。

千葉「箭内のライバルって誰なの?」
箭内「うーん……」
千葉「お前、いま同期のあいつのこと思い浮かべただろ」
箭内「い、いえ……そんなことないです(図星)」
千葉「同期をライバルにするなよ」
箭内「は、はい……」
千葉「箭内のライバルは佐々木宏や佐藤雅彦だ」
箭内「え」

新人になんてこと言うんだろう、この人は頭がおかしいんじゃないか……と当時は呆れさえしました。
今なら、千葉さんが言いたかったことがわかる気がします。

とにかく毎日暇でした。暇なんだけど、会社は休まなかった。朝はいつも、定時の9時半には席にいました。

—暇なのに。どうしてですか?

自分が席にいない時に、グループに新しい・面白い仕事がもし入ってきたら、僕じゃなく隣の席のデザイナーに回ってしまうって(笑)、それが怖くて席を離れられなかったんです。結局、そんな機会はありませんでしたが(笑)。貧乏性です。

—することがない中、箭内さんは何をしていたんですか?

草野球です。ある日、千葉さんが千葉グループで野球チームをつくると言い出した。土日も部下でいるのは辛いかもなあと思った僕は、その日のうちに自分が監督の野球チームを制作の若手と一緒につくりました。チーム名「ラッキューズ」。年間50試合以上していましたね。

土日の草野球を中心に日々が回ります。土日に試合をして、月曜にその試合結果を手書きの新聞にしてメンバー全員にファックスもしくは社内メール(当時は電子メールでなく封筒)。全員の最新の打率を常に計算したりして。火曜・水曜でグラウンドの抽選予約をしたり対戦相手を探して、木曜・金曜は昼休みにバッティングセンターに行く。千葉さんもそんな僕に気づいていましたが、他にさせることがない中、黙認でした。楽しかったなあ。

対戦チームの中には資生堂宣伝部やライトパブリシティもいて、資生堂チームの連絡窓口だった山本浩司さんとは、のちにunoの仕事の数々を共にしました。ライトパブリシティ(当時)の服部一成さんとは、現在キユーピーハーフの広告でご一緒しています。つながってるんですよね。

—その後、木村透さんとの「営業パトロール」があって、タワーレコードの仕事が始まって、現在につながるんですね。

そうです。そうそう、これは余談ですが、昔、佐々木宏さんがキャンペーンをディレクションしていたフジテレビに、木村さんと自主プレゼンをしたことがあって。

—箭内さんが「きっかけは、フジテレビ」をつくる数年前ですね。

はい。その時、僕と木村さんの2人だけじゃ見劣りするというか、さすがに弱っちく見えちゃうなと2人で相談して、誰か重みのあるクリエイティブディレクターを、形だけでも一緒に連れて行ったほうがいいとなった。

やっぱり宮崎さんか、安藤さんかなと。でも、宮崎さんだと宮崎さんがアイデアを考えて、宮崎さんの仕事になってしまうんじゃないかと不安に思った。一方、安藤さんだと、こんな案じゃダメだって厳しくディレクションされて、全然楽しくなくなっちゃうかもなと思った。それで僕たちは、戸田裕一さんにお願いしました。とにかくプレゼン当日に一緒に来て「こいつらをよろしく」って一言言ってくれるだけでいいので、って(笑)。

—戸田さんは現在、博報堂DYホールディングスの社長ですね(笑)。

はい、戸田さんにも感謝しています。やがてそのプレゼンという“藁”が、「きっかけは、フジテレビ」につながります。

そういえばつい先日、パルコの撮影で、ファッションデザイナーの森永邦彦さんに「才能」について僕がインタビューした時、「人よりなるべく遠回りができること」と彼が答えたのが印象的でした。何が近道で、何が遠回りかなんてわからないですよね。近道が遠回りだったり、遠回りが近道だったり。

大学受験の浪人時代、同じ予備校に通って、同じ3浪で東京藝術大学に一緒に合格した友人のなたりー(本名:斉藤達史)が当時、僕に言った言葉を今でも時々思い出します。「俺も箭内も、人と同じことやっても、人より時間かかるタイプだってことなんだよ」。その話に、すごく合点がいったというか、救われたというか、甘やかされたというか……博報堂での7年も、今では納得ができます。遠回りし続けて、それでも目的地にたどり着く。そのために大事なのは、諦めない執念なのだと思います。これも陳腐ですが。

最後に1曲、いいですか。音速ラインというバンドのアルバムに入っているんだけど、僕が詞を書いて、福島在住の藤井敬之くん(音速ライン)が曲をつけた「生きてくことは」という歌です。そんな終わり方って変ですかね?

—大丈夫です。変ですけど(笑)

それでは、またお会いしましょう。

今日、最後の曲です、音速ラインで「生きてくことは」。

 

箭内 道彦
箭内 道彦

1964年 福島県郡山市生まれ。博報堂を経て、2003年「風とロック」設立。タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」リクルート「ゼクシィ」をはじめ、既成の概念にとらわれない数々の広告キャンペーンを手がける。また、若者に絶大な人気を誇るフリーペーパー「月刊 風とロック」の発行、故郷・福島でのイベントプロデュース、テレビやラジオのパーソナリティ、そして2011年大晦日のNHK紅白歌合戦に出場したロックバンド「猪苗代湖ズ」のギタリストなど、多岐に渡る活動によって、広告の可能性を常に拡げ続けている。東京藝術大学非常勤講師、青山学院大学非常勤講師、秋田公立美術大学客員教授、福島県クリエイティブディレクター、郡山市音楽文化アドバイザーなども務める。

箭内 道彦

1964年 福島県郡山市生まれ。博報堂を経て、2003年「風とロック」設立。タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」リクルート「ゼクシィ」をはじめ、既成の概念にとらわれない数々の広告キャンペーンを手がける。また、若者に絶大な人気を誇るフリーペーパー「月刊 風とロック」の発行、故郷・福島でのイベントプロデュース、テレビやラジオのパーソナリティ、そして2011年大晦日のNHK紅白歌合戦に出場したロックバンド「猪苗代湖ズ」のギタリストなど、多岐に渡る活動によって、広告の可能性を常に拡げ続けている。東京藝術大学非常勤講師、青山学院大学非常勤講師、秋田公立美術大学客員教授、福島県クリエイティブディレクター、郡山市音楽文化アドバイザーなども務める。

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