【前回コラム】「アメリカが恋に落ちた大谷翔平選手、新時代を物語る透明なプレゼンス」はこちら
「グローバルで公的な場でのインタビューやスピーチなどのコミュニケーションを日本語で行うか、それとも英語か」。これは各企業や団体そして個人が、何を決め手として決定すべきか悩ましく思っていることの一つだろう。スピーチでの表現は意思表示であり、ブランディングの観点からも重要なポイントとなるからだ。今回はグローバルな場でのコミュニケーションにおける、いくつかの考え方についてご提案しよう。
前回の
で、大谷翔平選手の米国でのプレゼンスを取り上げた。その中で、コメンテーターであるスティーブン・A・スミスが「大谷がメディアとのコミュニケーションに通訳を使っていることで、大谷と野球が引き寄せることのできる観客が限られている」と主張しようとし、その夜に謝罪した件に触れた。
その後の8月17日にも、元大リーガーで現在デトロイト・タイガースの解説をしているジャック・モリス氏が、大谷選手についてコメントした際に、アジア系の人たちの英語アクセントを真似て非難され、謝罪をする一件があった。
いずれも発言者が謝罪をするに至ったのは、大谷の活躍により、彼のファンが沢山いるからであり、また昨今の人種差別を一層意識した社会の風潮も大いにあるだろう。それぞれの人間が持つ独自の文化や言語を肯定しようとする傾向が強まっている。
母国語のアクセントは魅力にもなるが…
外国語アクセントの英語は、ある意味その人のアイデンティティだ。筆者の親しい友人には、台湾人であり、イタリア人と結婚してNY在住の人がいる。彼女の英語はマンダリンとイタリア語アクセントのある英語で、正に彼女の生きてきた背景がそのまま表れていて、他の誰とも違いとても魅力的なのだ。
また、オーストリア生まれのアーノルド・シュワルツェネッガー氏の英語が上手になりすぎて母国語のアクセントがなくなってしまった時、「なんだか魅力的ではなくなってしまった」と言った人がいたことも思い出す。言語に存在するアクセントは、その人自身を表す一つの要素でもあるのだ。個人間における日常会話レベルであれば個性になる。
