「体験の再定義」から見えてくる次世代ブランド戦略
ニューヨークの街角で、いま注目すべき現象が起きている。それは新興スポーツ「ピックルボール」を軸にした、都市型ライフスタイルの大きな変化だ。テニスと卓球、バドミントンの要素を組み合わせたこの競技は、単なるスポーツトレンドを超え、ブランドとコミュニティの関係性を根本から変えようとしている。
数字が語る爆発的成長の裏側
まず押さえておきたいのは、その圧倒的な成長スピードだ。Pickleheads (ピックルボールのメディア)のまとめによると、Sports & Fitness Industry Association (SFIA)のデータでは2024年のアメリカ国内プレイヤー数は1,980万人、前年比45.8%増という驚異的な伸びを記録しているという。ニューヨーク市内では既存テニスコートの一定割合がピックルボール用に転用されるなどしており、市内の施設は、複数の公園・複合施設の事例から見ても「急拡張中」だ。
この5月にはセントラルパーク内のウォールマン・リンクに14面の常設コートがオープン。さらに注目すべきは、4月に元テニス世界ランキング1位のアンドレ・アガシ氏がピックルボールでプロデビューを果たしたことだ。この事実は、単なる「お手軽スポーツ」から「本格的競技」への格上げを象徴している。
なぜピックルボールがビジネス業界の注目を集めるのか
しかし、ビジネス業界がピックルボールに注目すべき理由は、競技人口の多さではない。それは、このスポーツが体現する「体験の再定義」にある。
従来のスポーツマーケティングは「観る」「応援する」「する」という明確な役割分担があった。だがピックルボールは違う。CityPickleのようなニューヨークにある施設では、プレイエリアの隣にバーとラウンジが併設されており、「プレイしながら社交する」「見ながら飲む」「話しながら次の試合を待つ」といった複合的な体験が当たり前になっている。
これは単なる設備の問題ではなく、消費者の時間の使い方そのものの変化を表している。「何かひとつのことに集中する」のではなく、「複数の価値を同時に得る」ことを求める都市生活者の志向が、ピックルボールというプラットフォームを通じて可視化されているのだ。
ファッション業界が見逃せない「二重の文脈」
特に興味深いのは、ピックルボールを起点としたファッション市場の動向だ。ここには方向性がまったく異なる2つの消費文脈が同時並行で進んでいる。
ひとつは「テニスコア」の文脈。白いプリーツスカートやポロシャツなど、クラシックなテニススタイルを纏うことで、ピックルボールの持つ「上品でありながらカジュアル」な雰囲気を演出する消費行動だ。実際にプレイするかどうかは関係なく、スタイルとしてテニス風味・清潔感があるガーリーファッションを楽しむ層が形成されている。実際、この夏のニューヨークでは非常によく見かける。
もうひとつは「週1プレイヤー」向けの機能性重視のアプローチ。こちらは移動・収納・可動性といった実用性が重視された、ファッションアクセサリーとしてのバッグやケースなど。「仕事にも運動にも対応する」という価値軸で商品選択が行えるようになっている。
Verified Market Researchによると、2024年のピックルボールアパレル市場は15億6000万ドル、2031年には33億5000万ドルに達すると予測されている。5月には、H&Mが「Hit the pickleball court in preppy fashion」というコピーでアクティブウェアを訴求していたほか、Kate SpadeやAnthropologieがピックルボール専用ラケットセット(パドル)を発売したことは、この市場の本気度を物語っている。
空間の価値を再定義する「場づくり」戦略
ピックルボールが提示するもう一つの重要な視点は、「遊休空間の活用」だ。ニューヨークでは屋上、空き倉庫、駐車スペースや、ビル前エントランス前の空きスペースといった「活かされていない場所」が、ピックルボールコートとして生まれ変わっている。
これは単なる不動産活用の話ではない。従来「移動の途中」「通過点」でしかなかった空間が、「滞在したい場所」「集まりたい場所」へと意味が変わったのだ。この事例は、あらゆる業界において、店舗や施設を「買い物の場」から「体験の場」「コミュニティの場」へと再定義するヒントを与えている。
実際、Hell’s Kitchen Pickleballで開催された「Swing into Success」では、AtriumとSalesforceが共催し、AI・データ業界のリーダーたちが集結。プレイ・講演・カクテルを組み合わせたハイブリッド型のネットワーキングイベントが、注目を集めた。これは単なる「売る場」ではなく、「一緒に過ごす場」としての企業イベントの新しい形を象徴する事例だと言える。
ピックルボールという空間は、都市型のスポーツであると同時に、関係構築のインフラとしても意味を持つ。都心の空きビルや倉庫跡地にも設置でき、短時間で、スキル格差を問わず誰でも参加できる。「会話しながらプレイできる」という特性は、まさにビジネス文脈と親和性が高い。
日本では「ビジネスの関係構築=ゴルフ」という構図が根強く残るが、人々にとっては参入障壁が高い。技術、道具、所要時間、場所までのアクセスなど、さまざまな要素が「やらない理由」として機能してしまう。
その点、ピックルボールは、都市部での展開が可能な「共通体験のハードルを限りなく下げた場」となり得る。これからの時代に必要なのは、「スキルを競う」場ではなく、「前提を揃えた上でつながる」仕組みなのだ。
実際にプレイしている様子を見ると、日本人の感覚で言えば、どこか「羽子板」に近い印象を受ける。勿論より競技として成立しているのだが、「まず当てる」「相手と打ち合いをする(相手に繋ぐ)」という、基本的なプレイが成立しやすい。そしてプラスチック製のボールをパドルで打った時の音が「羽子板」を連想させる。ボールは思いのほか飛ばず、テニスや卓球、バドミントンよりも、スケールが大きくなった羽子板のように映った。そのような特徴から、初心者でも「参加している」という実感を得やすい。
これはつまり、「上手・下手の差が開きにくい」設計になっているということだ。テニスや卓球、バドミントンでは、ラリーすら続かず「ごめん、やっぱり私下手だから…」と退場したくなる場面も多いが、ピックルボールでは「多少下手でも成立するプレイ」が許容されるようになっている。
この構造が、初心者にとって「続けよう」と思える仕組みになっている理由だと感じた。うまくなくても恥をかかずに済む、むしろ笑って交われる。その「ちょうどよさ」こそが、ピックルボールがビジネスシーンや社交場面で選ばれやすい理由のひとつだろう。一言で言うなら、「カッコ良すぎないからいい」のだろう。まさに時代を反映している。
この空間価値の転換が示す消費者行動の変化をいかに理解し、自社の戦略に活かすかが重要だ。人々はもはや「機能」だけでなく「意味」「体験」「つながり」を求めて場所を選んでいる。ピックルボールとそのコートや施設は、その複合的ニーズを満たすプラットフォームとして機能しているのである。
後編はこちら
