「気軽さ」が生む新しい顧客接点とその応用可能性
前編では、ピックルボールが体現する「体験の複合化」と「空間価値の再定義」について考察した。後編では、このムーブメントがビジネス戦略にもたらす具体的な示唆と、日本市場への応用可能性を考えてみる。
Photo: Niena Etsuko Hino
「気軽さ設計」で新規顧客へアプローチ
ピックルボールの最大の特徴は「すぐ始められること」だ。特別な道具や知識がなくても楽しめるこの気軽さは、あらゆる業界の顧客接点づくりに重要な示唆を与える。
CityPickleでは、コートレンタルだけでなく、「セントラルパークでピックルボールの楽しさを体験してもらうための、すべてのレベルのプレイヤー向けに設計された1日$5のグループプレイ」というコミュニティプレイが申し込めるようになっている。$6でパドルのレンタルもでき、何を着ればいいかについても、「動きやすく快適なスポーツウェアと、ノンマーキングソールのコート用スニーカーは必須です。個性のあるスタイルは必須ではありませんが、歓迎されます」とQ&Aのページに表記されている。事前予約は必須だが、大きなギアを用意することなく、動ける格好でセントラルパークに手ぶらで散歩に来る延長線で実施できる。
この導線設計は、「専門性より気軽さを優先する仕組み」の好例だ。従来のスポーツクラブが「上達」「継続」を前提にしていたのに対し、ピックルボール施設は「体験」「交流」を入口にしている。
この発想は、あらゆる業界のカスタマージャーニー設計に応用できるのではないだろうか。どの市場においても、「敷居の高さ」は新規顧客獲得の障壁となるケースが多い。ピックルボールの「1回の予約枠は大抵1時間、気軽に参加」というモデルは、短時間で価値を提供し、回転率を意識した運営ができることも示している。
注目すべきは、この「気軽さ設計」が生み出すユーザー体験の質だ。負担感を極限まで下げることで、従来アプローチできなかった顧客層との接点を作りだすことが可能になる。この考え方は、サブスクリプションサービスの無料体験や、体験型店舗の企画においても通じる部分だろう。
都市生活者の「柔軟性」への新しい価値観
ピックルボールブームのもう一つの背景には、都市生活者の時間感覚の変化があるのではないだろうか。「予定外の誘いに応じられる柔軟さ」が評価される時代において、ピックルボールは「急に誘われても参加しやすい」選択肢として機能している。カチッとしたビジネススタイルをすることがめっきり少なくなった昨今のビジネスシーンにおいては、上着を脱ぐくらいの感覚で、ちょっと着替え・履き替えれば、ピックルボールはプレイできるスポーツなわけだ。
とはいえ、「今日の夕方空いたからできないかな」というニーズに応える予約システムや、「思い立ったらすぐ始められる」パッケージは存在していても、実際は人気がありすぎてコートもクラスも思った時に参加できるわけではない。だが、ギリギリでキャンセルが出れば、便利なオンラインシステムにより、運よく参加できることもある。そして、現地でパドルも借りられる。
サービス提供側に求められるのは、従来の計画的消費行動とは異なるアプローチなのだ。
ニューヨークから見える日本市場への展開
ピックルボールという現象から読み取れるのは、「今、どんな前提が都市生活者の間で書き換わり始めているのか」ということだ。健康・社交・トレンド感の三拍子が揃った活動を求める消費者の変化は、日本でも起きているのではないだろうか。
特にZ世代~ミレニアル世代に当たる25~34歳くらいの年齢層における「体験の複合化」「空間の多目的化」「参加の気軽化」という3つのキーワードだ。これらはスポーツに限らず、小売、飲食、エンターテイメント、不動産など、あらゆる業界のビジネスモデルに影響を与える可能性がある。
今後日本でも、商店街の空きスペースや企業の持つ活用されていなかったエリアでの「ピックルボール的な場づくり」が広がるという可能性もある。重要なのは競技そのものではなく、そこから見えてくる「人々が自然と集まる構造」を理解し、その街や企業の事業展開といかにブレンドして活かすのかなのだ。
ピックルボール現象の3つのポイント
このピックルボール現象からポイントを3つにまとめると:
1.体験の複合化戦略
単一機能ではなく、複数の価値を同時提供する設計思想。「運動+社交+おしゃれ」を一度に満たすプラットフォーム思考が重要。
2.参加障壁の極小化
専門性や継続性を求めず、「試してみたい」という軽い気持ちを大切にする顧客接点設計。一回完結型の価値提供に注目。
3.空間価値の再定義
従来の用途にとらわれず、「滞在したい」「集まりたい」場所としての意味づけを創造する発想。物理的機能を超えた体験価値の創出が鍵。
日本展開の可能性と展望の発展性
ニューヨークで起きているピックルボール現象は、2020年以前の限定された高齢者・裏庭中心のローカルプレイから、CityPickleによる都市部ポップアップ展開を経て、現在のクールで最新の都市文化の1つとして認知されるまでの進化を遂げた。
この進化プロセスで最も注目すべきは、既存インフラの転用スピードだ。ニューヨークでは、テニスコートの一部改修、屋上スペースの活用、ビルの前にある利用されていない場所の転用が、わずか2、3年で実現している。これは日本の都市部でも応用可能な手法だろう。
また、価格設定の戦略も参考になる。CityPickleの「$5で参加」という低価格帯は、「試してみる」心理的ハードルを極限まで下げている。この価格感覚は、日本の都市部でも「手軽に体験できる新しい価値」として十分通用するはずだ。
重要なのは競技そのものではなく、「1時間以内で完結し、手ぶらで参加でき、初心者でも恥をかかない場」を作る設計思想だ。(日本においては、もしかしたら3点目のハードルを下げられることがとても大きい)この3つの要素を満たせば、ピックルボール以外の活動でも同様の集客効果が期待できる。
ニューヨークで起きているピックルボール現象は、単なる流行ではない。この現象は、都市生活者の価値観と行動様式の変化を映し出す鏡だ。そして、次世代のビジネス戦略を考える上で見逃せない重要なシグナルなのだ。今必要なのは、この変化の兆しを顧客や市場を通じて早期に察知し、新しい体験価値の創造につなげていくことだろう。
