そもそもコピーはなんのためにある?
そもそも、コピーってなんのためにあるのでしょうか?
なぜ広告表現には、当たり前のように、「コピーと呼ばれる短い言葉」をつけなくてはいけないのでしょう。
私は毎年博報堂の新人研修でコピーの枠をもらっています。上記の質問をしてみたところ、ある新人はこう答えました。
「言いたいことを一言にまとめるため、でしょうか。」
この答え、間違ってはいませんが、ちょっとあぶない発想だと思います。この発想は、つくり手側の都合=メッセージや表現を短く整理したい、という作業プロセス上の動機だけでできているからです。
コピーがなんのためにあるか。それは、「受け手となる生活者の目線」で規定すべきだと思います。
結論から言うと私は、「コピーとは、その商品やブランドに“特定の目線”を与えるためにある」と思っています。
コピーがないと、その商品やブランドをどう見るか、というのは、見る人それぞれの自由な目線に委ねられてしまいます。
でもそこにコピーがあると、たくさんある目線の中から、「こういう目線で見てほしい」を誘導できるガイドのような役割をしてくれます。
つまりコピーとは、商品やブランドに特定の見方を与える言葉を添えることで、「なるほどそういう視点で見ると魅力的なものに見えてくる」と思わせてくれる言葉なのです。
言われてみればなんてことのないことのように聞こえますが、僕は最初ずっと、コピーとはその一行だけで感銘を与えたり人を泣かせたりする文学やアートのような言葉こそ至上、だと思い込んでいました。そうではなく、「商品やブランドそのものを主役として、魅力的な見方を与える補助的な役割な」なんだと理解できたとき、ものすごく腑に落ち、それ以降とてもコピーを考えやすくなりました。
上記のリンゴの例で言えば、たとえば世の中の万人に感銘を与え続けている名曲のフレーズ「上を向いて歩こう」という前向きな言葉がリンゴに添えられていても、単体として「いい言葉だな」と思うだけで、リンゴそのものとは関係がなさすぎて、リンゴの価値を上げるまでには至りません。でもそこに「今年のリンゴは豊作で、例年より糖度が高いです」と書かれていたら、なるほどそういうふうに見えてくる。その一行は、リンゴを買ってかじってみたい気持ちにさせる力にあふれています。