杉山恒太郎氏の新刊『THINK PUBLIC』からプロローグを公開

小学館「ピッカピカの1年生」、サントリーローヤル「ランボー」などで国内外の広告賞を多数受賞し、世界最大級の広告祭・カンヌライオンズ 国際クリエイティビティ・フェスティバルの国際審査員を3度務めるなど、国内外で活躍するクリエイター 杉山恒太郎氏。電通を経て、現在はライトパブリシティに所属し、クリエイティブの現場の第一線を走り続けています。

国内外のクリエイティブを熟知し、考察し続けている杉山氏による新刊『THINK PUBLIC 世界のクリエイティブは公共の課題に答えを出す』が、6月30日に発売となります。

本書で取り上げる広告は、一般的に「公共広告」と呼ばれているものが多くあります。「公共広告」と聞くと、非営利団体や行政、国連関連組織によるキャンペーンを想像する方が多いかもしれません。しかし、本書では企業による公共サービス型の事例も織り交ぜながら、さらに一歩踏み込み、氏はこれからの広告のあるべき姿といsて「THINK PUBLIC」を提言します。

ここでは、本書から「PROLOGUE」の部分を一部抜粋してご紹介します。

『THINK PUBLIC 世界のクリエイティブは公共の課題に答えを出す』
2025年6月30日発売
杉山恒太郎 (著)
河尻亨一(編集協力)
定価:2200円(本体2000円+税)
ISBN 978-4-88335-628-7
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PROLOGUE
公共広告をめぐる僕自身の履歴書
─クリエイティブは“Think Public”の時代へ─

本書ではこれから世界の優れた“公共広告”をご紹介していく。非営利団体や行政、国連関連組織によるキャンペーンが中心だが、企業による公共サービス型事例も織り交ぜていきたい。なぜなら、企業広告の公共化と社会化は、21世紀の潮流であり時代精神の反映だ。僕は両者をまとめて“公告”と呼ぶこともある。

本文に入る前に、なぜ、僕が公共広告に興味を持ったのか、そのことがみずからの仕事にどんな影響を与え、具体的にはどんなキャンペーンを手がけてきたのか、そして、この領域にはどんな可能性が秘められているのか?──といったことを記しておきたい。いわば公共広告をめぐる僕自身の“履歴書”である。

1991年、あるアワードの日本代表審査員を務めたことがきっかけとなり、僕は世界の公共広告(パブリック・サービス・アド)の質と量に圧倒された。

そのアワードというのは「カンヌライオンズ」の略称で知られるカンヌ国際広告祭だ。

現在では「広告」の看板を「創造性」にかけ換え、カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル(Cannes Lions International Festival of Creativity)としてさらなる発展を遂げている。

このカンヌで僕は衝撃を受けた。まさにカルチャーショックだった。

ありていに言うなら、欧米圏と日本の広告表現のレベル差というか乖離の度合いに打ちのめされたのである。

ときはバブルの絶頂期、日本ではその10年ほど前からコピーライターがもてはやされ、「日本の広告が世界で一番面白い」と言われ、僕自身「日本のクリエイターは一流なのかな?」という自信を胸に挑んだのだが、そんな幻想が打ち砕かれる経験だった。

言うならばカンヌは“アウェイ”だ。僕たちの常識やルールが通用しない。

日本と海外の広告のどこがどう違うのか?それについては、これまで様々な書籍に執筆したり、講演などでもお伝えしてきたし、折に触れ本書でもコメントしたいが、まず第一に挙げるなら、説得力のあるビジュアルランゲージ(ノンバーバルに伝わる視覚言語)を軸とするレトリックの巧みさ、そしてその根幹にあるアイデアの発想力だろう。

ほかにも驚かされたことがある。カンヌで見た広告は人間や社会の暗部も平然と描いていた。人生に明暗があるとすれば、広告はもっぱら明るい側、つまり笑顔を描くもの、僕たちはそんな不文律に縛られている。だが、文化や芸術は明暗があってこそ成り立つものだろう。

1999年にフィルム部門のグランプリを受賞したソニープレイステーションの「Double Life」は、人には昼の顔と夜の顔があるというコンセプトで明暗の両サイドを描ききった傑作だった。

カンヌで知り合ったある海外のクリエイティブ・ディレクターは、僕にこう言った。「日本のCMってアイデアがない。冷たい感じがして見る人を楽しませてくれない」。

公共広告は「広告のための広告」である

広告表現と言うとノリでつくっているかのように誤解されやすいが、実は確立されたクラフトマンシップがある。既存の意味(価値)の転換を図る“persuade(説得)”の技術がある。それを成す鍵はノンバーバルに伝わる視覚言語──カンヌライオンズでの審査員経験からそんな学びを得た僕が、もう1つ気づかされたのはグローバル社会における公共広告の存在意義だ。

広告に備わる意味転換のダイナミズム。つまり、世間の価値観をアイデアと表現で更新できる。その力をいかんなく発揮できる舞台は「公共広告」にあると世界のトップクリエイターたちはよく知っている。海の向こうではこの分野が僕たちの仕事の重要な側面を担っていることが、いやというほどわかった。

公共広告と言うと、消費の歯車を回転させる日頃の業務への後ろめたさから、社会正義に目覚めて思いつきで制作する腕試しのような仕事──そんな先入観を抱いていたのだが、これは完全な誤解。社会のダークサイドまで描くことができる公共広告こそ、僕たちのクリエイティビティやプロフェッショナリズムを存分に発揮し、また実際の効果(社会的インパクト)も大きいという事実を目の当たりにしたし、イギリスなどではエイズの啓発キャンペーンがこの病に対する偏見を減らし、蔓延防止に功を奏したという話も耳にした。

効果だけが重要なのではない。公共広告は人間や社会の暗部により迫ることができる。幼児虐待、ドラッグ、人種差別、ハンディキャップの問題など── 一般的な商品広告ではふれられない社会課題に公然と向き合える。広告の力って本当にすごい。その力を世の中にわかりやすく示すのが公共広告。つまり、公共広告は「広告のための広告」でもある、というのが僕の結論で、我が意を得たりと思ったのだ。

言葉で説明するだけではイメージが湧きにくいかもしれない。そのとき僕がカンヌの審査で目にしてショックを受けた公共広告の一例を挙げよう。熱帯雨林伐採に警鐘を鳴らすブラジルのCM。こんな映像だった。

深い森の中に先住民の少女が1人佇んでいる。小鳥たちのさえずりが聞こえ、幸福そうな音楽が流れている。

そこに突然、その少女の黒く長い髪がバリカンで乱暴に刈られ始める。そのバリカンの音はやがて、森の大木を切り倒すチェーンソーの音に変わっていく。根元から裂かれた木が、地面に叩きつけられる音が響く。

ラストには、髪をすべて刈られてしまった少女の無惨な姿。悲しげなその目が何かを訴えている──。

ここまでやるのか……初めてこれを見せられたときの衝撃は、いまだに忘れられない。少女の髪を乱暴に刈る行いを森林伐採のメタファーとして用いている。もちろん、今日の人権観念に照らし合わせると、暴力性を感じさせるこの表現そのものが現在では受け入れ難いものだろう。だが、森林伐採が先住民にとって、これほどの悲しみをもたらす暴挙なのだというメッセージは、たった30秒のCM、それもほぼワンビジュアルの視覚言語から痛いほど伝わってくる。

カンヌから帰った僕は「アウェイで戦ってみたい。それも公共広告で」と考えた。それも上から目線の社会正義を伝えるのではなく、ユーモアや美的感動のある公共広告をつくり、人々の理解を得たいと。(続きは、本書にて)

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杉山恒太郎(すぎやま・こうたろう)

立教大学卒業後、1974年電通入社。東京本社クリエーティブディレクターとして活躍。1999年よりデジタル領域のリーダーを務め、インタラクティブ広告(ビジネス)の確立に寄与。トラディショナル広告とインタラクティブ広告の両方を熟知した数少ないエグゼクティブクリエーティブディレクター。2005年取締役常務執行役員を経て、2012年ライトパブリシティへ移籍。2015年代表取締役社長に就任。主な作品は、小学館「ピッカピカの一年生」、セブン‐イレブン「セブンイレブンいい気分」、サントリーローヤル「ランボー」シリーズ、AC「WATERMAN」など。国内外で受賞多数。2018年第7回ACCクリエイターズ殿 堂入り。2022年全広連日本宣伝賞「山名賞」を受賞。

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