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コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

技術はコンテンツに対し中立でいられるのか?
~CD1枚74分とサビ頭ポップソングにその真髄を見る~

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今回は、技術が規定する環境(アーキテクチャー)とコンテンツ内容の関係について話したいと思います。

今から約30年ほど前、国内ではじめてソニーからCDプレーヤー1号機が発売され、CDソフトの販売も始まりました。この件には、単に「ステレオ機器と音楽ソフトの流通形態にまつわる話」を超える深い意味合いがあります。技術とコンテンツの関係を考えるうえでの、基本事例として、ぜひ紹介したいと思います。

音楽というものは、それ自体は手にとって触ったりできないものです。それ故、その内容を録音した物理的なパッケージ技術が、それを商品として流通させるために必要とされてきました。しかし、物理的なパッケージや録音形態が変わること、具体的には、「アナログ盤からCDへと変化すること」は、本来的ならば、あくまでミュージシャンと聴き手をつなぐ「流通形態」つまり、音楽を届けるパイプの変化の話にすぎないはずです。

つまりアナログ盤からCDへという変化は、これをデリバリーフードに例えれば、宅配ピザ屋の配達手段が、自転車からスクーターに変化したようなもの、と言えなくもなかったはずなのです。ピザ屋の仕事にとってみれば、美味しいピザを作ることが、仕事上の最重要関心事であり、自転車で配達するか、スクーターで配達するか?は、ピザ職人にとっても、お客にとっても、さほど重要なことではないでしょう。この考えは、前回コラムの最後でメディアの業界に根強く存在する考えとして紹介した、「(配信形態がどうであれ)、メディアは、読者から信頼される高品質なコンテンツを作ることこそ使命である」という考えと相似形です。

さて、ここで雑学クイズです。CDの録音時間の上限は最大で74分なのですが、これがなぜ、74分に決まったか、その理由を皆さんは、ご存知でしょうか?

CDはソニーとオランダのメーカーであるPHILIPSが共同開発しました。その当時、クラシック音楽界で「帝王」と呼ばれた指揮者・カラヤンは、「ベートーベンの交響曲第9番(=いわゆる第九、なぜか年末に合唱されるあの曲)を、CD1枚で聴けるべきだ」とCDの開発エンジニア達に要望し、これまた東京芸大の音楽学部出身という異色の経歴のSONY副社長、大賀氏がその意を汲み取って、最大74分と決めたというエピソードがCDの録音時間がなぜ74分に決まったのか?の真相として一般に流布されている説です(筆者は、DJにのめり込み、アナログ盤を数百枚も買い込んでいた数寄者なので、事情は違いますが、今の30代以下の方は、自分でアナログ盤に針を落として音楽を聞くという経験をほとんどしたことのない世代だと思います。以降、重要な部分なので、少し解説します)。

それまで、アナログ盤での「第九」は2枚組のレコードで売られており、1枚目のA面に第1楽章(約15分)、B面に第2楽章(約13分)、2枚目のA面に第3楽章(約15分)、B面に第4楽章(約25分)が録音されていたそうです。そして、アナログ盤は片面ずつに音楽が収録されているので、当たり前ですが、楽章が終わるごとにレコード盤を「ひっくり返す」、そして1枚目から、2枚目に移行するときには、レコード盤を入れ替えるという手間が必ず発生します。これでは、せっかく目を閉じて音楽の世界にのめり込んでいても、いちいち興ざめしてしまいますね。

なるほど、「第九」をリスナーが何もせずに通しで聞けるように、という名指揮者カラヤンからのCD開発陣への要望は、さすがに本来の聞き手心理にかなったものでもありました。

当たり前ですが、ベートーベンが、CD1枚の容量に収まるように・・・と、「第九」を74分間の長さで作曲したのではありません。「第九」が74分間だったから、CD1枚の容量がそれを収録できるように、と決められたのです。やはり技術は手段にすぎず、ベートーベンに代表されるクリエイター(つまりコンテンツの作り手)は、技術的な制約の都合など、全く考える必要はないのですよ!!メデタシ、メデタシ。と言いたいところなのですが、現実にその後起こったことは、やや違いました。

CDの発売から約10年、90年代前半は安価な再生プレーヤーとしてのCDラジカセなどの普及と、カラオケブームでの練習需要ということもあって、日本の音楽業界が、産業として最盛期を迎えました。そして、この時点では、すでに国内で流通する大部分の音楽ソフトはCD形態になっていました。

さてさて、CD普及後の音楽業界に起こった大きな変化とは、なんでしょうか?それはCD化に歩調を合わせるように進んだ「サビ頭の曲の増加」でした。それまでは、ポップソングの曲構成の定番パターンは、Aメロ⇒Bメロ⇒サビ(Cメロ)という構成が一般的でした。そして通常、一番盛り上がる曲の聴かせどころが、いわゆるサビ(Cメロ)です。テレビCMなどとタイアップしたときには、ほとんどの場合、サビのフレーズがCM内で使われます。

ところが、CD中心の音楽流通になるに従い、サビがいきなり曲のアタマに来る構成をとったポップソングが激増したのです。なぜでしょうか? アナログ盤がCDへと変化したことによる、聞き手にとっての大きな変化は、曲単位でのスキップ・頭出しが圧倒的に容易になったことでした。それまでは、ターンテーブルでアナログプレイヤーでレコード盤を聞いたことのある方は容易に想像していただけると思いますが、曲の頭から正確に聞けるように針を落とすのは、ビニルの板に年輪のように刻まされた溝を目で読み、針で突くようなもので、至難のワザでした。ところが、CDになり、リモコンのボタン一つで曲と曲との間が、瞬時に飛ばせるようになってしまったのです。

つまりアナログ盤時代には、一度、針を落としたら後は「腰を落ち着けてじっくり聞く」だった音楽リスニングのスタイルが、音源がCDになることで「リモコンで、自分の聞きたいところだけを、つまみ食いするように聞く」というスタイルに変化してしまったのです。リモコンで、アルバムに収められた曲をスキップして頭出ししながら聞いていくときには、サビが曲の頭に来ていないと、「CMで(サビを)聞いたアノ曲はどれだっけ??」というように、聞き手にとっては非常に面倒です。それゆえに、CD内に付けられた索引インデックスのように、サビがド頭に来る曲構成が、非常に一般的になりました(いわゆるWANDSやZARDのようなビーイング系アーティストがその典型です。またサビの歌詞の言葉を、そのまま曲名タイトルに盛り込む、という手法も一般化しました。これも、カラオケで歌われやすくするためには、曲のタイトルを覚えやすくしておかないといけない、というニーズから発生したものです)。

イントロから徐々に盛り上げて行ってサビで聞き手を感動させたい!というミュージシャンの思いは、CDになり「リモコンによるスキップ再生」という機能が付いたことで、「時代遅れの古風なこだわり」になってしまったのかもしれません。おそらくCDの仕様策定に携わった開発陣は、ボタンひとつで次の曲をスキップ再生という機能を盛り込むことが、ポップソングや音楽アルバムの構成にここまでの変化をもたらすとは予測していなかったでしょう。

さらにもう一つ、CDになって大きく変わったこととして、聞き手にとってはアルバム単位での一体感や曲順ということは、ある意味では、「どうでもいいこと」になりました。アナログ盤のときには、ミュージシャンにしてみれば、シングルカットに向くような「受けやすい曲」を盛り込みつつ、やや実験的な曲を、その合間に盛り込んでいっても、曲を飛ばして頭出しすることがリスナーにとって手間だったため、あたかも映画のように、アルバムを最初から最後まで「通し」で聞いてもらえることを期待できたのですが、CDになってからは、リスナーにとってすぐにピンとこない曲は、「なんだ?この捨て曲は?」とボタンひとつで瞬時に飛ばされてオシマイ、になってしまい、アルバム全体での作品性へのこだわり、というものも薄れてしまったように思います(このことがいわゆるベスト盤ブームの底流でもあります)。

当たり前ですが、すでに故人のベートーベンではなく、現代を生き、アウトプットに商業性も求められるクリエイターにとっては、技術環境の変化は、単なる下部構造、流通の問題だ、と切って捨てるわけにはいきませんでした。

冒頭で紹介した例に戻っていうならば、アナログ盤からCDへという流通形態の変化は、宅配ピザの配達手段が、自転車からスクーターへ変わったという類の変化ではありませんでした。音楽の消費スタイルを寿司に例えるならば、頑固にネタにこだわる昔気質の寿司職人がカウンター越しに客と向きあいながら、オススメコースを食べさせるような寿司屋から、客が勝手に、自分が食べたいものを、好きなだけ食べる回転寿司へ・・・、というような単に流通の問題だけでない利用スタイルそのものの質的な変化までもたらしたのです。
 (次ページへ続く