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コラム

脳のなかの金魚

何かを得た時、何かが失われるという原理について

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ある能力の獲得と、ある能力の喪失

ニコラス・ハンフリーという心理学者が、『喪失と獲得 進化心理学から見た心と体』という本を書いている。素晴らしい絵を描いていた自閉症の少女が成長し、言語能力を習得するにつれて、絵を描く能力が失われていった事例を紹介している。彼がここで仮説として提示しようとしているのは、ひとりの人間が、ひとつの能力を獲得する時、今まで持っていた他の能力を喪失してしまう、という原理があるのではないかということである。プロセス、および能力の相関関係など、そもそも証明がむつかしいので仮説の域にとどまっているのだけれど。
ただ、この仮説の立て方。ひとりの人間における、ある能力と別の能力との相関性。何が消えて何が残り、何が新たに生まれるのか。それは人間がコントロールできるのか。根拠はとくにないけれど、なんだかちょっとぞわぞわするのだ。

デビューした頃の林真理子センセイのエッセイを読んで、ある編集者が、「君はコピーはヘタだろ」と言ったというエピソードは有名だ。長いものがこれだけ「獲得」できているとコピーのような圧縮芸術に関しては「喪失」しているはずだと言い当てている。

江川卓がストレートとカーブしか投げなかったのは、スライダーを投げすぎると、ストレートのスピードが遅くなるかららしい。

一般に視覚障害の方たちは、それ以外の感覚が研ぎ澄まされるとよく言われる。

オーヴァー・コンプライアンスは、結果的に無為な社員を大量に生み出す。決して本人たちのせいではなく。「やめといた方が無難なんじゃないか」が、何ものかを喪失させる力は、フーバー時代のFBI並みだ。

43歳の時、ゴーギャンはすべてを捨てて、タヒチに向かった。

例えば、過激で強烈にくだらないCMを連発して一世を風靡したCMプランナーが、心を入れ替えてか、飽きてかはわからないが、ともかく、人生をテーマにしたいい感じのCMばかり創るようになって、これまた高い評価を得たとする。その後、つい、往年のような過激なお笑いものを創ったとする。けれど残念ながら、それはこけるのだ。おそらく少ししかヘタにはなっていない。そこそこにはおもしろい。けれどこけるのだ。確実に。
                                      
最近の研究によれば、生後6か月の幼児が聞き分けられた音が、生後12か月経って外界を認知する能力が向上した幼児には、もう聞き分けられなくなるのだという。大人になるにつれて、ヒトは新しい細胞による新しい回路を造れなくなるらしい。獲得ばかりの一方的進行は、細胞学的にも認められていないようなのだ。

人間は一生、獲得と喪失のプロセスを辿っていくものなのか。

例えばドストエフスキーは喪失と獲得の物語だ。神を獲得したことで自分自身を喪失してしまうような。

村上春樹もそう。カポーティもそう。ヘミングウェイもそう。ランボーもそう。ポール・サイモンもそう。クリント・イーストウッドもそう。大島弓子もそう。

誰も抗えない喪失と獲得のせつなさに耐えるためにこそ、ヒトには物語が必要なのかもしれない。

物語。

そこには、ふつう、いささかの成長が含まれている。
成長とは、獲得が喪失よりかろうじて3グラムくらい多いことを指すのだろう。
直線的な足し算のような呑気なものではどうもなさそうだ。残念ながら。

もういちど18歳に戻りたい、と無邪気にときどき思う。ただ、手ぶらで戻っても、無為な時間を繰り返すだけなので、今持っているそれなりの悪知恵とともに。

あの時、もっと卑怯な手を使えばよかったとか、ただ為すすべもなく口を開けてばかみたく事態を見てるだけでなく、とにかく何かを決定すればよかったとか、あの場面は、一回大嘘をつけば完璧に問題を収拾できたのにとかとか。

けれど、そうはいかないのである。

あの無尽蔵のエネルギーと、あたかもそれとセットになっているかのようなイノセンス。あれは、どうしても、悪知恵ひとつ発動するたび、ひとセットずつ失われていくのだろう。

18歳くらいの頃の自分の写真が出てきた。
肩くらいまであるふさふさな髪。そもそも髪の持つエナジー量が今と全然ちがう。
写真の中のその若者は、とても愚鈍な目をしている。

何も知らない。何もわかってない。
ということに気づいていない者特有の、とても愚かな目をしている。
ソクラテスの「自分は何も知らない。けれど何も知らないということを知っている」という言葉すら知らないと思われる。

何かを喪失したことは、何かを新たに獲得したことを意味しているのではないか。
この獲得が、何かの喪失を意味しているとしても、その喪失はたぶん新しい獲得を意味しているのではないか。

喪失こそ、チャンスをもたらす。
喪失こそ、希望の契機になり得る。

何の証拠もないのだけれど、獲得と喪失の運動は、ヒトが絶望せずにすむための装置なのかもしれない。

メトロポリタン・オペラのプロデューサーたちは、自分たちの仕事を、“educated gamble” と呼んでいる。
オペラのビッグ・プロダクションは、準備におよそ5年かかる。プログラムとスケジュールをまず決めるのだが、何よりたいへんなのは、歌手の選定だという。

それはそうだ。現時点でさえ、ブリュンヒルデを歌えるのは世界で数人しかいないのに、
5年後ベストなキャスティングを、今せよ。ということだから。

もちろんメトロ以上に、オペラに関する知見をもっているところはない。
けれど、5年後だれがソプラノのトップかは、誰も予測できない。

で、どうするか。
最後は、やはり、えいや、で決めるという。
最高度の知見を総動員して、最後は、賭けに出る。
それが、”educated gamble”の意味だ。

喪失と獲得運動が、言おうとしているのは、
「賭けに出よ。失敗せよ。」ではないか。

昨今、どこもかしこも、失敗できなくなっている。
それでは、圧倒的にだめなのだ。
なぜなら、何も身につかないから。

人生は、喪失することが、あらかじめ組み込まれている運動体なのだ。
神さまの設計は、いつも絶妙だ。


atcreative-direction

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