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前略、コピーの道の上より。

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コピーを書いても書いても、いばらの道。

「おい、誰か筆ペン持ってこいや!ヨタローの赤城にスミ入れっからよ!」

ことわっておくが、ここは、ヤクザの事務所ではなく、広告の制作会社だ。そうだ、不動産以外の広告、お菓子やビール、クルマの…そんな広告がつくりたくて飛び込んだ、夢のフィールドのはずだった。だが、目の前にいるのは、アロハを着た、強面の男。眼光鋭く、睨みつけてくる。東本三郎氏。会社の社長であるその人は、山のように積み上げられた俺のボツコピーを一瞥しながら、

「ったく、シャレになんないダジャレばっかり書きやがって、ダボがっ!」

と吐き捨てると、筆ペンで俺の顔にスミを入れ始めた。そう、羽子板で負けた方が顔に入れられる、あれだ。先ほどの恐ろしい形相とは打って変わって、まるで少年のように無邪気な表情で、俺の顔にごじゃごじゃと描いた。そして、

「お前の場合、藤竜也みたいな髭を入れてやるとサマになるぜ…ははは」

と、仕上げのスミを鼻の下に入れた。目もあてられない無様な顔で、その日一日、過ごさなければならない。打ち合わせに訪れた代理店の人々は「赤城ちゃん、またやっちゃったんだ。またダジャレ書いちゃったの?」と笑っている。

「なんだよ赤城!その眉間のシワはよ!笑えよ、ほら、色男ちゃんよ!」

と、東本社長。はいチーズ…。そのスミ入れの顔はポラロイド写真で撮影され、でっかい模造紙でつくった「ダメ成績表」に貼られてゆく。「写真が10枚たまったヤツはクビだぞ」という触れこみだった。俺を含め4人の若手コピーライターが在籍していた。下手なコピーを書くたび、それぞれの名前の欄に、スミ入れ写真が増えてゆく。まるで風俗嬢の成績表みたいな雰囲気だった。もちろんダントツトップは俺。夢も希望も消えかけ、すぐに胃に穴があいた。

それでもある日、東本社長が大喜びするコピーを書けた日があった。牛乳普及協会が制定した「ミルクの日」を広告するというもので、「今年は、チチの日が2度やってきます」という、ダジャレすれすれのヒヤヒヤもんのコピーだった。

「おい、赤城の写真、ぜんぶ、はがしてやれや。クビは当分、放免だな」

コピーのコの字から教わった東本社長と

ということになり、なんとかコピーライターとして働き続けらけることになった。でもそれから数年の間は、コピーがダメだといっては殴られ、仕切りが悪いといっては蹴られ、礼儀がなってないといっては頭突きを入れられる、そんな日々が続いた。25歳にもなってビンタされる男なんて、俺以外にいるんだろうか…、この俺がコピーライターとして輝く日は来るんだろうか。泣きながら原稿用紙にコピーを書き続けた。

今、思えば、圧倒的な畏れを抱く人のそばで、普通に生きていたのではとても経験できないような濃密な時間を過ごす、そのことの大事さを、痛切に感じる。書いてはボツになってゆく何千本ものコピー。ダメダメな俺には避けて通れない、ナミダの修行の道だった。何年もかかってしまったが、ここ、アドビジョンで、やっとコピーライターになれた気がした。

そして、1997年。30歳のときに、東本社長のディレクションの元で、TCC新人賞をいただく。受賞したことを電話で伝えると「そうか…そうか…、おめでとう」と言ったきり、受話器の向こうで沈黙が流れ、やがてはっきりとむせび泣く男の声が聞こえた。俺のために泣いてくれる人がいるんだ、受賞の悦びが何十倍にも膨れ上がった。あの「JJショック」から7年の時が流れていた。さらに6年後、アドジビョンを卒業し、以来、フリーランスの道を歩み続けている。

次ページ 「山あり谷あり、近道なき、コピーの道。」へ続く