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なぜ私たちは英語を学ぶのか?~翻訳家・エッセイストの村井理子氏に聴く、英語学習と翻訳の関係~

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国会中継が好きだった子ども時代

村井さんといえば、プロフィールに「ファーストレディ研究家」と記載されるほど、大統領とファーストレディ周辺のニュースを追いかける日々があった。翻訳書を手掛けるきっかけになったのはブッシュ大統領の本であるし、そのブッシュの妻であるローラ・ブッシュの自伝『ローラ・ブッシュ自伝 – 脚光の舞台裏』(中央公論新社)の翻訳本も出版している。ファーストレディに興味を持ったきっかけも大学時代に読みふけった雑誌がきっかけだったのだろうか。

「ファーストレディは最近なんですよ。小学生の頃から大統領が好きだったので、カーター大統領の時代から長いこと追いかけてて、当時の新聞の切り抜きが今でも残ってます」。

政治家への興味はアメリカにとどまらず、日本も込みで当時からウオッチしていた。昔は政治家が亡くなると号外が出たりしたが、その号外を取りに行って「号外ファイル」なるものを作っていたという、今から見てもかなり珍しい小学生である。

「国会中継がけっこう好きで、BGM代わりに観ていたかな。政治に興味があるんじゃなくて、政治家になる人ってどんな人なんだろう、という、そこの興味からだった」。

とにかく人への興味があふれている。日常を切り取ったエッセイが多くの人々の心に響くのも、絶え間ない人への興味と長年培われた観察力からくるように思われた。

もともと書くことが好きだったわけではなかったが、小学生の頃から交換日記の文章がとにかく長かったという。

「長すぎて日記の欄からはみ出ちゃう(笑)。ずっと長い、って言われてて…ずっとそう。なんか書いちゃう」。

英語も漠然と勉強していただけで、書くことにもそれほど貪欲ではなかったが、昔から興味のあることにはとにかく凝り性だった。英語や文章の書き方にしても、勉強することを目的にしたことはなく、自然に好きなことを続けていた結果が今の仕事につながっている。

放任主義だった両親による家庭環境も、今考えると自分が思うよりは強く影響していたのだろう。両親は焼津市でジャズ喫茶を経営していた。「子どもの頃からいかにもアメリカという文化が家にもお店にもたくさんあって英語はレコードでずっと流れていて、ベルボトムジーンズを履いたお兄さんたちが集まるような空間。自分で子どもを育てるまでは気づかなかったけど、そんな生育環境だったから今にして思うと影響はあったのかな、と思う」。

また、生まれ育った焼津市という港町独特の雰囲気も、村井さんの自由で貪欲な行動力が生まれたきっかけになったと言えるかもしれない。閉鎖的な港町ながら村井さんの子ども時代は漁獲量が多く、遠洋漁業の船がアフリカを回って帰ってくると港はとても賑やかだったという。

「船が戻ってきた途端にどっと西洋のものが入ってくるという特異な環境で、船乗りはお金を持ってるから、外国の船乗りなんかがブワーッとお金を使うわけ。町自体は寂れているのに、そういうときは大胆に火がつくところがあって、けっこう浮わついた町だった」

昭和の時代の日本とは思えない、どこか外国の港町の話を聞いているようだ。「大人もがちゃがちゃ働いてるし、お金が行き交うような場所だったから、親も忙しくて放任だったんだと思う」

両親が経営するジャズ喫茶で自然に触れていた外国文化と、町全体が醸し出す活気あふれる文化。細かいことは気にしない大らかな大人たちに囲まれて、村井さんは自然に自身の能力を育んでいったのだということが容易に想像できるエピソードである。

次ページ 「翻訳は総合トレーニングというか、トライアスロン」へ続く