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パンの形 ―“大澤秀一”という職人がつくるパンの形―

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転機―ひとりの人との出会い―

自分の作るパンに違和感を持ち始めた大澤さん。しかし、その答えを出そうとする前に、商業施設全体の閉業が決まり、大澤さんも店を閉めざるを得なくなる。

閉店当日、大澤さんの頭にふと『パンの教科書-ブランジェリーコム・シノワ』(旭屋出版)の著者・西川功晃さんがよぎる。西川シェフは、卓越した製パン技術と斬新な発想力で日本の製パン業界を牽引する重鎮。神戸のベーカリー「サ マーシュ」のオーナーを務めながら、セミナーや執筆活動なども精力的に行っている。 

「西川シェフに教えを乞おう」大澤さんは、店を閉めたその足で、西川シェフのいる神戸へ向かった。2012年、大澤さんが26歳の時だ。西川シェフは、突然の訪問者を拒否することはせず、簡単な採用試験を行うと、大澤さんを自身の工房へ迎え入れた。

工房内での西川シェフの教えは生易しいものではなかった。「いつも怒鳴られていました。入った当時、普通に生地を丸めているだけなのに『さわるな!!』って怒鳴られて。最初はなんで怒鳴られるのか全く分からなかったんですが、西川シェフのパンへの接し方を見ていたら、そうか、そりゃさわるなって怒鳴るのも当たり前だ、と思えるようになりました。こうやって、ヒヨコをなでるみたいに生地に触れて。顔にくっつくんじゃなかってくらい生地を近づけて」。

そう言って、大澤さんは西川シェフの手つきを思い出しながら、自分の手を少し動かしてみせた。生地の表情、色、つや、ぬくもり。生地が心地よく呼吸をしていることを確かめるようにして、丁寧にパンを作る西川シェフの姿が目に浮かんだ。「パンは売り物でしかなかったんですが、西川シェフに出会って、パンは生き物なんだと気づきました。それから、自分の作るパンの概念が変わりました。全部」。 

西川シェフが大澤さんに伝えたかったのは、水分コントロールやグルテンの引き加減、塩の特徴や焼きのタイミングといった技術的な枝葉ではなく、パンに対する作り手の根本的な姿勢についてだった。パンに向き合う姿勢そのものが、その人のパンを形作っていく。西川シェフのパンに対する哲学が、大澤さんを変えていった。

粉・水・塩・酵母。バラバラにあった素材同士が互いを引き寄せ合い、つながり合い、「パン」というひとつの生き物として呼吸を始める。作り手は、その命のかたまりに触れ、呼吸を合わせ、よりパンの命が輝くための形へと生地を導いていく。作り手とパンのシンクロが深くなっていくと、双方の間にあった境界線がなくなっていく。作り手は、いつの間にかパンの形がそのまま自分自身の形になっていることに気づく。

最終的に、パンは人の手の届かない灼熱の中で焼かれ、新しい命をつなぐための“食べ物”の形になり命を全うする。“パンを作る”という過程には、そんな物語があるのではないだろうか。

大澤さんは、西川シェフのもとでパンに対する姿勢を学んだ後、パティシエとして第一線で活躍する鎧塚俊彦さんが経営する店舗で、繊細な洋菓子の感性を含む製パンを学んだ。その土地、小田原で見た流鏑馬の感動が、のちにモンディアル・デュ・パンで作る飾りパンのモチーフにつながっていく。

再び群馬に帰り、大澤さんは新たな場所でパンを作り始める。店名は「Comme´N 」。「Comme」とはフランス語で「~のように」。「N」は西川シェフのN。つなげると「西川シェフのように」。「いくら本気で真似して西川シェフと同じパンを作ろうとしても、絶対に同じものは作れなくて。理想とする西川シェフのパンにはならないんです。おやじに教えられた通りに作ったパンもそう。レシピは同じでも、おやじと同じパンを自分が作ることはできない。で、気づいたんです。それでいいんだって。そういう想いを持って必死になって作ったパンが大澤秀一のパンなんだって」。

父親の教えを引き継ぎ、憧れる人の背中を懸命に追いかけ、必死になって全力で作るパン。それが大澤秀一という人の作るパン。「Comme´N 」という店名にも、ありのままの自分を肯定する大澤さんの心情が表れている。

西川シェフという大きな存在との出会いをきっかけに、単に「売り物」だったパンが「生き物」に変わり、「おいしい」と言われても「それは自分のパンではないから」と、どこか否定的に思っていたパンが「自分のパン」だと思えるようになっていく。「大澤秀一のパン」にある輪郭を一気につかみ始めた大澤さんは、七転八倒しながらもその勢いに乗って、世界最高峰のパンコンテスト「モンディアル・デュ・パン」の大舞台に挑戦する。

大澤さんの話を聞きながら、ウェブで見た流鏑馬の飾りパンが、なぜあんなに生きているように見えたのかが腑に落ちてきた。あのパンは、そんな大澤さんの熱量をそのまま映し出していたのだ。騎馬に乗ってまっすぐに弓を引く射手は、間違いなく大澤さん本人だと改めて思った。

次ページ 「新しい挑戦」へ続く