第3回は、社会的に注目される「推し活」ムーブメントをSBNRの視点で分析します(本記事は、3月21日に発売した新刊『SBNRエコノミー「心の豊かさ」の探求から生まれる新たなマーケット』から一部を抜粋・編集して掲載しています)。
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「転・精神文化」:日常行為をリチュアル化するアプローチ
さて、ここからは、「転・精神文化(Shift to Spiritual)」によって広がったムーブメントを見ていきます。「脱・宗教」が宗教的行為を楽行へと転換するアプローチなのに対し、「転・精神文化」はもともと宗教的な行為ではなかったものに、宗教のルーツや考え方などを取り入れることで、より高い体験価値や効用を生み出し、日常行為をリチュアル化するというアプローチ。リチュアル化…と言ってもピンとこないかもしれません。キーワードは「道(みち)化」「型(かた)化」「聖地化」です。
1. 道化:その行いを極めながら、自己を探求すること。
2. 型化:既存の行動に新たな形式やルールを取り入れ、あえてその型にはまること。
3. 聖地化:特定の場所や空間に、精神的価値を付与すること。
『SBNRエコノミー』より引用
この3つのポイントを押さえながら、「転・精神文化」したムーブメントを見てみましょう。
「推し活」として市民権を得たファンカルチャー
「転・精神文化」による市場拡大の例として、挙げられるのがファンカルチャーです。ここでは「推し活」ならびにその原型である「オタ活=オタク活動」を総称してファンカルチャーと呼びます。
メディアでは連日「推し活」が取り上げられ、企業も推し活を意識したコミュニケーションを展開するようになりました。絶対的価値観が消失し、個々人が自分にとって価値のあるものを主体的に探求しなければならない現代、ファンカルチャーは日本でかつてない盛り上がりを見せています。博報堂とSIGNINGが2024年に発行した「オシノミクスレポート」での調査では、「推しがいる」と回答する日本人は3人に1人と、推し活は日本経済において無視できない存在となっています。
博報堂× SIGNING『オシノミクスレポート』
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館の児玉竜一氏と招聘研究員の赤井紀美氏は、日本人とファンカルチャーの親和性が高い理由として「庶民層の厚さ」が影響しているのではないか?といいます。
『推し』にお金を捧げること、それを行っている人が可視化されるのも日本の特徴かもしれないですね。例えばアメリカやイギリスは、もっと見えないところでもっと大きな金額が動いていると聞きます。そのお金を出している人たちはほんとの一部の雲の上の存在で、一般人からは見えません。逆に日本は庶民ができる範囲で頑張ってお金を出し合って推している、という感じを覚えます。この部分も日本の『推し活』の特徴として挙がるかもしれません
(博報堂× SIGNING『オシノミクスレポート』より)
推し活が発展する中で、推す側の心理にもバリエーションが生まれました。前出の「オシノミクスレポート」では、推し活の心理を6つのタイプに分類しています。
① 推し活を共有体験にしたいクラスター
② 推し活で日々を輝かせたいクラスター
③ 推しをエネルギーに生きたいクラスター
④ 推しを遠くから眺めたいクラスター
⑤ 推し活をカジュアルに楽しみたいクラスター
⑥ 推し活をどこまでも極めたいクラスター
『SBNRエコノミー』より引用
この分類だけでも推し活の多様性がうかがえますが、私たちが特に注目したいのは③と⑥のタイプです。③は推しは生きがいであり、SNSを駆使して推しの情報を集め、オタクの自覚を持ち、推しのグッズを常に身に着け、コラボ企業に感謝を示すという特徴があります。⑥は推しのグッズをすべて網羅し、イベントにすべて参加し、推しへの課金を愛情表現として行い、推し活をやめられないストイックな姿勢が特徴です。私たちは③や⑥のような推しを神聖化するファンたちの推し活スタイルはきわめて「転・精神文化」的であると考えています。
「推す」とは、「南無」することである。「道化」した推し活
推しこそアイデンティティ、推しは自己表現手段。推し活の意義としてそんな話をよく聞きます。もちろん、ファンの日常生活や心理に深く入り込む「推し」はその人の自己形成や生きがいに大きく寄与しています。推しが発信するメッセージや行動を自分の生活に取り入れ、推しの理念を自分の価値観に落とし込み、自己を高めていく行動を取ること。推しの成長を見守りながら、自分も理想的なファンへと成長していくこと。こういったこともヘビーファンの推し活の特徴といえ、「求道」的側面が強いことがうかがえます。
僧侶であり随筆家、そして「煩悩クリエイター」としても知られる稲田ズイキ氏は、自身もアイドルの熱狂的なヘビーファンとして、朝日新聞ポッドキャスト(#582『アイドルは無常、推し活は修行 オタク僧侶が語る仏教との共通点』)の中で宗教と推し活の共通点についてユニークな視点を呈示しています。稲田氏によれば、仏教の実践である「何かを選び取ってそれを信じ、念仏を唱え続ける行為」は、推し活において「ひとりのアイドルを選び、人生を捧げ、そこから幸せを得る」という状態と非常に似ているといいます。すなわち、「推す」という行為は「南無する(帰依する:その対象を崇め、その教えに全身全霊ですがること)」ことと同義だ、というのです。
さらに興味深いのは、推していたアイドルが何らかの理由で目の前から消えてしまったときのファンの心情です。稲田氏はこれを仏教の歴史と照らし合わせて説明します。お釈迦様が物理的な存在としての人間から、「如来」(=仏)という普遍的な存在へと昇華していったように、ファンも「推しロス」を乗り越える過程で、「推しがいなくても推しがいる」という感覚に至ります。つまり、推しは目に見える形ではいなくなったとしても、その存在が心の中で生き続け、自分を支えているという境地に達するのです。
「推しとの関係性」や「推しの喪失」を宗教と結びつける稲田氏の考察にヒントを得ると、推し活とは、対象と結ばれることではなく、推すというその行為自体が目的であり、自己の存在を保ってくれるもの。ただただそこに帰依し、その信仰を持ち続けることに意味がある。それこそが幸せである。つまり、「転・精神文化」メソッドの「道化」が働いている世界であるということがうかがえます。