JFKのイメージを国民に伝える「演出家」―ケネディ政権下で報道官を務めたサリンジャー 

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ピエール・サリンジャー(Pierre Salinger、1925~2004)

本コラム第4回で、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治顧問を務めたルイス・マクヘンリー・ハウを紹介しました。今回は、ジョン・F・ケネディ(JFK)大統領からホワイトハウス報道官に任命され、広報担当の枠を超えてJFKの専任メディア戦略アドバイザーとしての役割を果たした、ピエール・サリンジャーを紹介します。

JFKの広報戦略は「テレビとイメージを中心に据えた近代政治広報」の原型として、現代政治コミュニケーションに多大な影響を及ぼしました。サリンジャーは、報道部門の中核スタッフとして、その企画実践に手腕を振るいました。

「ホワイトハウスがメディア戦略をもって国家運営にあたる」体制を確立

サリンジャーは、1959年にJFKが上院議員だった時に彼のスピーチの草稿作成などを通じて関係が始まりました。1960年の大統領選挙では広報担当としてケネディ陣営を支え、メディア戦略の構築に貢献したことから、1961年~1964年にホワイトハウス報道官、のちに在仏アメリカ大使館の首席公使、ジャーナリストや著述家として活動しました。

JFKは、サリンジャーを「報道官以上の存在」とみなし、しばしば私的な相談役としても頼りにしていました。

では、サリンジャーが果たした役割を具体的に検証する前に、JFK政権の広報体制はどのようなものだったか、私なりに整理しておきたいと思います。

まず、「専門的な広報・報道チームを常設」したという点が特徴的です。それまでのホワイトハウス広報は「記者対応」「声明発表」にとどまっていましたが、JFK政権では戦略的にメッセージを発信するための広報専門チームとして整備しました。大統領直属で、「メディア戦略を立案・実行する専任部隊」が組織され、毎日、メディアモニタリング、メッセージ管理、記者とのリレーション管理を実施しました。

次に、テレビを意識したJFKの「ビジュアル」を、徹底的に管理したことです。JFK政権では、すべての公式行事・会見をテレビ映えするように設計しました。たとえば、プレスカンファレンスは可能な限りテレビ中継し、国民に直接メッセージを届けました。

JFKは1961年に史上初めてテレビ生中継による定例記者会見を実施しました。その際、部屋の照明、カメラ位置、記者とのやり取りのスタイルまで徹底してリハーサルを行ったと言われています。

また、メッセージの一元管理と「イシュー・マネジメント」を行いました。すべての行政機関(省庁)から出される発表や声明文は、基本的にホワイトハウス広報部門が内容を精査すると共に、メディアに対する情報発信を一元化し、不必要かつ不正確なメッセージ発信を防止しました。これは「イシュー・マネジメント(特定テーマに対する一貫した対応)」の初期型といえます。

さらに、JFKに関するより魅力的な「ニュースづくり」に注力していました。これは、単に記者の質問に答えるのではなく、政権側からニュースの材料を仕掛けていく戦略です。たとえば、大統領夫妻の「非公式な休日」写真をマスメディア向けに意図的に流す、海外訪問での演説を事前にマスメディアと調整するなど、パブリシティを意識した広報を政治の世界に導入しました。

JFK時代に整えられたこの広報体制は、後の「ホワイトハウスはメディア戦略をもって国家運営にあたる」という基本政策をつくり上げ、後の政権に大きな影響を与えました。つまり、「広報は国家統治の一部」であり、「メディアは国民との直通パイプ」という考え方が、JFK政権時によって制度化されたわけです。

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テレビを使った広報戦略の重要性を最初に理解した政権に

ではサリンジャーは、何をしたのでしょうか。彼は、単なる「広報官」という範囲を超えて、JFKのイメージを国民に伝える演出家のような存在だったといえるでしょう。サリンジャーは、JFKの公式報道官として、ホワイトハウスのニュース発信を統括しました。毎日の記者会見を担当し、メディア対応をリードします。会見では、情報を「伝達」するだけではなく、ケネディの政治的・個人的イメージを意図的につくり出す役割を持ちました。

JFK政権は、テレビを使った広報戦略の重要性を最初に理解した政権でした。サリンジャーは、記者会見のカメラアングル、照明、演出内容を細かく監督しました。たとえば、JFKの定例記者会見(史上初のテレビ生中継)の際には、記者席のレイアウト、質問内容の想定、大統領のリアクション(ユーモア、知的な印象を与えるトーン)を事前に細かく準備していました。

サリンジャーは、「どのニュースをいつ出すか」を決め、メディアへの露出をコントロールしました。たとえば、良いニュース(新政策発表、外交成果など)は週初めに発表し、国民の印象を強め、悪いニュース(失敗、不祥事の対応など)は金曜日の午後(週末前に)発表して、世間の関心を薄める、といったテクニックも用いました。

彼は単に記者に情報を流すだけでなく、記者たちと個人的な人間関係を築くことに努力し、オフレコ情報を適度に提供しながら、逆に大統領にとって不利な報道を水面下で抑えたり、修正させたりする交渉も行っていました。特に、JFKの私生活(女性問題など)に関する報道が最小限に抑えられたのは、サリンジャーの記者管理能力の成果とも言われます。

また、彼は危機広報対応(Crisis Communications)にも優れた管理能力を発揮しました。たとえばキューバ危機(1962年)の際には、アメリカ国民のパニックを防ぐため、サリンジャーが大統領演説のタイミング、メディアへの事前説明(ブリーフィング)、記者会見での統一された説明方針などを準備し、JFKの大統領としてのリーダーシップイメージを損なわないように、慎重かつスピーディに情報を開示しました。

サリンジャーは、「現代的な政治広報の先駆者」と言える存在だったのです。

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河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)
河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ140社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2600本を超えた(2024年12月31日現在: 2618本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。PRSJ認定PRプランナー(登録番号00279)。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

河西 仁(ミアキス・アソシエイツ 代表)

かさい・ひとし/ミアキス・アソシエイツ 代表。10年にわたる外資系メーカーでの国内広報宣伝部門責任者を経て、1998年8月より広報コンサルタントとして独立。以来、延べ140社以上の外資系IT企業をはじめ、ITベンチャー各社の広報業務の企画実践に関するコンサルティング業務に携わる。メーカーでの広報担当時代(1989年~)から現在まで、自身で作成・校正を手がけたプレスリリースは、2600本を超えた(2024年12月31日現在: 2618本)。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科修士課程修了(コミュニケーション学)。日本広報学会会員。PRSJ認定PRプランナー(登録番号00279)。著書に『アイビー・リー 世界初の広報・PR業務』(同友館)。

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