『宣伝会議のこの本、どんな本?』では、弊社が刊行した書籍の、内容と性格を感じていただけるよう、本のテーマを掘り下げるような解説を掲載していきます。言うなれば、本の中身の見通しと、その本の位置づけをわかりやすくするための試みです。今回は一橋大学経営管理研究科教授の松井剛さんが『THE CUSTOMER CENTRIC COMPANY 顧客基点経営10の実践』(岩井琢磨 編著)を紹介します。
歌手・三波春夫氏が広めた「お客様は神様です」という有名なフレーズがあります。この言葉は、しばしば顧客至上主義の象徴として理解されてきました。しかし本来の意味は、顧客の要求に無条件に従うことではありません。三波氏にとって「お客様」とは、神前で祈るような心持ちで芸を捧げる相手であり、このフレーズも、提供者が自らの仕事の質を律するための倫理を表していました。
本書が説く顧客基点経営は、まさにこの三波氏の本来の精神に通じます。顧客基点とは、顧客の声に盲従することではありません。「顧客のより良い生活」を実現すべく、自社はどのような価値を生み出すべきかを問い続ける自己変革の姿勢こそが、その核心です。
本書はビジネス書としては珍しい本です。なぜなら、「ただのひとつも、新しい理論を示していない」(p.198)と自ら明言しているからです。一般にビジネス書は、「環境変化」に応じてアップデートしなければ生き残れない、という素朴なダーウィニズムのロジックに乗り、「新しい」理論の必要性を説くことが少なくありません。しかし本書は、古くは1960年の文献にも立ち返りながら、埃にまみれたかに見える理論を、2020年代のデジタル環境下で顧客基点経営を実現するために「翻訳」し直しています。まさに温故知新の実践書です。
もうひとつ珍しいのは、Customer-Centric Management Mapという俯瞰図を冒頭に示し、それぞれの実践課題を各章で深く論じている点です。このマップは各章の扉にも示され、読み手は、自分が全体の議論のどこにいるのかを意識しながら読み進めることができます。良い経営には良い「分析」(analysis)が必要です。しかし、もともと「分かつ」という意味を持つ分析は、分かたれたものを関連付ける「綜合」(synthesis)という知的作業があってこそ意味を持ちます。分析を重ねることで、かえって意思決定が停滞する「分析麻痺症候群」(analysis paralysis)という言葉がありました。綜合なき分析に陥りがちなビジネス言説が少なくない中で、顧客基点経営を綜合的に論じる稀有な一冊と言えるでしょう。
この綜合的性格は、本書の「見た目」にも表れています。小口を見ると、白い本文ページの間に、灰色地の実践コラムが縞のように挟み込まれています。コラムでは、編著者が代表取締役を務めるコンサルティング・ファーム「顧客時間」に参画するプロフェッショナルたちが、各章の理論的説明と呼応する形で、実践知を共有しています。この縞模様は、理論と実践を往還しながら展開される本書ならではの構成を、視覚的にも象徴しています。
顧客を中心に置くとはどういうことか? 経営、マーケティング、営業、DX、組織づくりに関わるすべての人に、その根本的な問いを改めて考えさせる一冊です。


『THE CUSTOMER CENTRIC COMPANY 顧客基点経営10の実践』
岩井琢磨 編著/定価2,200円+税
DXを推進しても、なぜ事業成果に結びつかないのか。その要因は、本来基点となるべき「顧客体験」が描けていないことにある。本書は、編著者・岩井琢磨が共同CEOを務めるコンサルティング・ファーム「顧客時間」での数多くの変革プロジェクトを通じて培われた実践知を初めて体系化した一冊。