真っ黒に焦げた塊、体中に突き刺さるガラス片、骨組みだけになった路面電車の中でつり革を握ったまま死んだ人——。いずれも、81年前、長崎市に原爆が投下された直後に人々が見た光景だ。被爆地・長崎を見つめ続けてきた地元紙の長崎新聞が2020年から毎年、新聞広告でこうした被爆の実相と核兵器廃絶を訴えてきた。多くの人が命を奪われ、今も悲しみ苦しむ中、原爆を広告にすることはタブーとされてきた。それでも、長崎新聞は祈り、長崎を最後の被爆地にと願い、平和の尊さを伝えようと、広告の力に託した。
体からはげた皮膚がぶらぶらと垂れ下がり、飛び出した眼球を手で押さえている。「熱い、熱い」「水ば、水ば」とあえぎながら。
地獄。地獄絵。生き地獄。あの日の長崎の様子を、多くの被爆者が「地獄」と表現している。地獄を体験した人たちは、核の力に頼ることを許さない。
近くに転がっていた材木をかき集め、父の遺体を雨戸に乗せて燃やした。火葬が珍しかったのか、米兵がカメラで撮影していた。でも怒りすらわかなかった。
命を奪われた人たちは、逃げる時間も、さよならを言う時間も、ありませんでした。
これらは、長崎新聞が広告に掲載した言葉だ。「想像力が抑止力になる」。むごく、目を背けたくなるような言葉だが、多くの人が想像し、81年前に何が起こり、自分たちがどうしていかなければならないか、考えてほしいと願う。
同社が原爆についての広告企画を初めて掲載したのは2015年の戦後70年のとき。県民や県出身の著名人らから寄せられた平和へのメッセージを7色に塗り分けて掲載し、虹が浮き出る仕様にした。この広告企画を担当した、同社東京支社長で、当時は営業局(現:メディアビジネス局)勤務だった福岡一磨氏は、「原爆をビジネスにつなげたくない、長崎としてはタブーであり、かなり微妙なところだった。しかし、新聞ができることの限界、閉塞感、そして役割とは何なのかという問いもあり、いろんな人の知恵を借り、社員で協力して取り組むことになった」と話す。新聞では毎日、原爆や被爆者についての記事を掲載してきた。それでも、伝えられる範囲や伝え方には限りがあった。
戦後75年という節目の2020年、新たに広告の企画を立ち上げることになった。重いテーマを伝える以上、しっかり向き合わなければならない。そして、きちんとしたシステムの整備が必要と考え、長崎出身のクリエイティブディレクターの鳥巣智行氏に協力を仰いだ。その上で、営業職である以上は売上も求められると覚悟した。広告を通じて伝えなければならないと福岡氏が思いを強くするには、自身が経験した違和感があったからだ。
