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コラム

Webプロダクション進化論

仲間意識が会社を潰す

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1997年に個人事業で歩み始めたワン・トゥー・テン・デザイン。思惑通り、ヤフーのホームページ制作会社カテゴリーで上から2番目をキープし、徐々に依頼が来るようになりました。(数年後、法人名での掲載が基本となったため、1-10designからワン・トゥー・テン・デザインに登録名が変わり、見事に最下位になります(笑)。本当シニカルな話です)

当時は、学生との二足のわらじを履いたまま、週3日は大学に行き、残り4日で働く。クライアントには学生や体のことを隠し、オンラインのみで、受注・契約・制作・納品をほぼ無休で行っていました。若さがなければ絶対に無理だったと思います。そんな生活を数年過ごしました。

フリーランスの苦悩

2000年、26歳のときに、烏丸御池という京都の中心街にオフィスを借りることになります。新しく建った町家ギャラリー併設の3階建てマンションの1階で、10畳と8畳の50㎡。家賃は商用利用ということで10万円でした。アルバイトの営業(大学の同級生)と事務員と私の3人で、仕事をするようになり、企画、デザイン、実装は全て自ら1人で行っていました。初回のヒアリングは営業に任せ、提案は自分が担当をしていました。徐々にクライアントに会うことも増え、依頼が来る喜びと毎回新しい挑戦ができる喜びを味わっていました。

ホテル東京という老舗ホテルが品川(泉岳寺)にあり(現在は廃業)、その依頼が初めての東京からの依頼でした。ホテルに招待(宿泊)いただき、自慢のフランス料理をご馳走に。その時いただいた魚介のタルタルは格別の味でした。「数年後に品川に新幹線が来る!」当時の社長が建設中のビル群を見て、興奮気味に私に語ってくれたのを昨日のことのように覚えています。今、東京支社が品川にあるのも、実は利便性以外にこの思い出が強くあるからです。

私は、絶えず、点と点が時空の前後で結びつくということを経験しています、全ては必然なのかもしれません。まさにハイパーリンクのように。

翌2001年にはついに大学を卒業。同時に有限会社に組織変更をします。もっと働くぞ!
しかし、実際は、暇つぶしに来たワンマン社長の下ネタ話を延々と聞いたり、メールやネットの設定を頼まれたり、もう制作に集中なんて出来やしない。気の良さが招いたことでした。

フリーランスなので、ある程度、時間は自由でしたが、休みに関係なく携帯は鳴り、経理や事務の作業も多く、制作への集中もままなりませんでした。またインプットの時間もあまりとれなかったため、徐々に技術面での不安が大きくなり、相談相手がいないことによる孤独が日増しに増幅していきます。

親父の金言

そうこうしているうちにある疑問が頭に湧き始めます。
「休みもなく働いて、そんなに儲かってるわけでもないし、手を動かせるのは自分だけで超過密スケジュール。アルバイトはゆっくり作業してるよなあ・・・。社長って名ばかりだよなあ」と。気づくと、「疲れた」と吐くことが常習化していました。好きなことをしているはずなのに。「主体を自分に置く」とは相反して、何かを理由にし、ただ仕事を消化するようになっていました。

そんな時に、父親が次のようなことをいいます。

「芳明、社長というのは経営をし、自分が実際に手を動かした以上の利益を得ないといけない。自分が働いた分よりも少ない利益だと感じるのなら、1人でやるべきだ」

正直、どちらかというと父親は迷言の多い人なのですが、この言葉で私は頭を殴られました。社長という言葉に多少酔いつつも、経営を考えていなかった自分を初めて俯瞰して眺めた瞬間でした。父親にとっては何気ない一言だったのかもしれませんが、これによって、霧が晴れると同時に、経営という山道が目の前に現れました。制作以上のことで会社に利益をもたらすことが、自分の役割であると(まあ、とはいえ、作ることが好きなのですが)。

2002年、さらに広いスペースを求め、五条烏丸へ移転。あることがきっかけで大家と大喧嘩したことが移転の理由だったため、賃貸は避け、75㎡の3LDKのマンションを購入しました。そこを住居兼オフィスとします。

中学時代からの友人が入社し、その後さらに2人(うち1人は大学の後輩の笹江)が増えます。皆が友達という感じで、上下関係は意識しませんでした。徹夜をした朝は一緒に朝食を食べ、お昼は手作りのスープを飲んだり、和気あいあいと業務を行っていました。毎日が合宿のようで、本当に楽しかったです。そして、8人まで増えたところで、二軒隣の高橋ビルへと移転します。

金がない! 月収8万円の社長

高橋ビルのオフィスは京都精華大学出身のfhamsさん(今本社があるCOCON烏丸の多くのテナントも設計)に設計・施工してもらいます。間伐材のフローリングに白壁のシンプルで快適なオフィスが完成しました。しかし、社員が急に増えたことや出費が重なったことにより、原資はかなり減っていました。

当時はリクルートメディアコミニュケーションズさんとのお取引が多く、案件は順調に増えていたものの、人件費などの出金の方が現金回収よりも数カ月早いため、黒字倒産寸前の自転車操業状態に。結果、私の給与を下げ(社員よりも低い月8万円)、個人の資金を入れることで、何とかしのぎます。案件が多くあっても、入出金のタイミングや投資のバランスによって、資金は大きく増減するため、急成長時のキャッシュフローには注意が必要です。当時は銀行からの借り入れもなく、非常に怖い思いをしました。現在は、月商の約2~3倍の運転資金を確保しています。

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旧オフィス

社員が一気に辞めてしまった

社員数が10人を超え、創業以来、売り上げが毎年倍増する形で成長を続けていました。リクルートさんとのお仕事は、主にリクナビの求人コンテンツが多く、フックコンテンツとして、エントリー(資料請求や応募)のコンバージョンを高めることが主な目的でした。当時は学生にとって有利な売り手市場だったため、並列に多くの企業が求人を掲載する中で、いかに学生に興味を持ってもらうかが重要でした。

Flashを使用し、インタラクションを多用した、いわゆる一発ネタのアイデアが求められ、リクルートの中のエースの方とお仕事をする中で、コピーとビジュアルといういわゆるマス広告的な思考のプランニング力が鍛えられていきます。元々、ホームページではなく広告クリエイティブに興味があった私は、この仕事が非常に楽しく、どうすれば魅力的なコンテンツになるか、そればかりを考えていました。そして、そんな最中、社員がばたばたと一気に辞め、社歴1年以上の社員が1人という状況に陥ります。

男の方が派閥を作る

原因は一言で言えば、私の未熟さが理由でした。あることが原因で男性社員2人が不仲となり、社内に亀裂が入ります。通常なら2人の確執で済むところが、双方に派閥的な仲間がいたため、社内全体にその空気が伝わり、非常に重い雰囲気になります。

2人とも私に心を打ち明けて自分の正当性を主張するようになり、どちらも間違ってはいない。その二律背反の板挟みの中で、私は両方に親身にします。つまり、両方に良い顔をしたわけです。それは間違いでした。自分の意見を素直に言えばよかったと後で気づきました。結果、私自身もセンシティブになり、双方との距離が広がることとなりました。

また、当時、FlashがActionScript2を使用したコーディングに変化をしているまさに過渡期で、アニメーションからプログラミングでのモーションが主流になり始めていたこと、受注内容が採用コンテンツのようなマイクロサイトから、広告代理店との大型のプロモーションサイト制作へ変わり始めていたことなど、複数の要因が重なって招いた結果でした。

私の経験では、女性は派閥(仲の良いグループ)があっても表立っては、他グループへ敵意は持ちません。しかし、男性は入社歴や趣向、性格でグループを作る傾向が強く、得てして排他的です(まあ、それが男だとも思うのですが)。私は上記の経験から、社内でのそういった偏りが嫌いになりました。それが業務上のモチベーションになることはありますが、業務への関与が強すぎると組織運営の妨げになることのほうが多いと感じています。

また、排他的であるがゆえに、共通敵を軸にした結びつきがあり、その場合は真の友情とは言いがたいでしょう。仲が良いことは推奨すべきことですので、仕事の上では、才能へのリスペクトを軸とした信頼できる結びつきであればと願うばかりです。仲間とはそういうものではないでしょうか?

尊敬できる仲間と仕事を行うことは、私の生きがいですが、仲間意識で仕事上の関係に緊張感を損なうようなことがあれば、いずれ、仲が悪くなったという理由でその関係は失われ、双方の成長に寄与していなかったと気づくことになるでしょう。最大の理解者は最大の批判者でもあるものです。

アメリカや中国、また多くの国ではジョブホッピングが盛んで(上海での30歳以下の平均勤続年数は1年半というデータもあるようです。現地でもそういった話はよく聞きました)、自らのキャリアの中で属する組織とビジョンが共有できているかどうかが非常に重要です。上司や経営者は、コミュケーションの密度を高め、彼らのロイヤリティを高める努力が必要です。日本は今本格的な人材のグローバリゼーションの時代を迎えようとしています。私も今年は海外出張が増えています。いわゆる仲間意識ではなく、ビジョンを基にミッションを遂行するプロフェッショナル集団としての姿でなければ、今後は難しいのではと感じています。

波乱の末に

それまでの社員の多くが辞め、入れ替わりに通学スクールのデジタルハリウッドから多くのスタッフを採用します。そして、そのときのメンバーが今へとつながる礎となり、今も多くが我が社で頑張ってくれています。現在のワン・トゥー・テンの始まりはまさにこの時でした。2006年のことです。

そして、この後、大きな転機を招くことになる、自社サイト「只今、リニューアル中」を公開します。

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おそらくどの経営者も同様だと思いますが、会社経営において順風満帆ということはなかなかありません。私もこれまでに一通りの苦い経験をしてきました。ですので、ストレス耐性が高いかどうかは経営者にとってとても重要な能力だと思っています。

会社の社員は「尊敬できる」仲間です。逆風があろうと、これまで続けてこられたのは苦悩をはるかに上回る素晴らしい瞬間が数え切れないほどあったからです。共に悩み、考え、いくつもの課題を乗り越え制作し、評価を頂けた体験は、一生もののクリエイターの宝物です。そして、それを共に成し遂げた仲間もまた一生ものでしょう。そういう仲間とこれからもワン・トゥー・テンとして歩んでいきたいと思います。

では、次回、弊社がこだわる自社サイトについてお話をさせていただきます。タイトルは、「自社サイト考」。Webプロダクションにとっての自社サイトの意味について考えてみたいと思います。

澤邊 芳明「Webプロダクション進化論」バックナンバー