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コラム

藤村厚夫のメディア地殻変動

大手広告主の予算凍結事件が突きつけるもの。メディアが生み出す文脈的価値とは何か?

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モラルハザードの背景にあるもの

これまで述べてきたようなモラルハザードが起きる背景には、広告効果への極端なまでに最適化した手法の浸透がある。今回で言えばネットワーク型広告がそれだ。

望ましい属性を有した消費者にリーチする仕組みがあれば、広告が出現する場所を問う必要はない。システムに任せれば良い。

それが、近年の広告テクノロジーが到達した地平だ。広告テクノロジーを担ぐ人たちからは、こんな宣言があったことをここで思い返してもいいだろう。

インターネットではメディア(サイト)ごとに掲載面をベースに広告配信を考えることがナンセンスだということがある。ここは従来のメディアでのビークルごとにメディアプランニングする思考と最も違うところだ。

つまり、「どこに掲載するか」から「誰に配信するか」という考え方にシフトしていることと、広告レスポンスの高いところに自動配信して最適化を図るという発想をベースにしている。(業界人間ベム「第三者配信サーバー(バイイングサイドアドサーバー)を考える。」)

これが有名な「枠から人へ」というテーゼの中核にある思想だ。
2008年に書かれたという時期的な理由もあるが、ここで最も軽んじられているのは「どのようなメディア」に広告を掲出するかという点、すなわち、媒体価値そのものだった。

狙う消費者がそこにいるのなら、どんなメディアでリーチしても良いではないか、あとはお値段次第だという立論について、筆者は、「メディアの価値を追いつめる」と批判した(拙稿「だれがメディアの価値を追いつめているのか」)。この種の思考がまさに極まったところで、昨年来、私たちが直面するメディアと広告をめぐるモラルハザードが露呈したのだと考えるべきだ。

適切な文脈で消費者と出会う

そもそも、望む消費者を、メディアという場と切り離して的確にターゲットできるものだろうか?

おそらくそうではない、と筆者は考える。過去に「コンテキスト指向メディア論」や「サービスとしてのメディア/文脈的価値をめぐる断章」で論じてきたように、ある一人の生活者(消費者)は背後にさまざまな文脈(コンテキスト)を従えている。

それは何人もの家族を有して生活費を稼がなければならない人として、あるいは、読書好きの物静かな中年男性として、さらには、昼の時間帯に近づき空腹を意識している会社人といったように。一人の人間とは、このように多様な文脈の総合体なのだ。

その中から一定の文脈を浮かび上がらせるものこそ、メディアという場の力ではないのか。

「今日のランチにどのような店を選ぼうか」と、レストランガイドを開く消費者に、その可処分所得や家族構成を的確にターゲットした保険商品の広告を訴求しても、その広告効果は低い。

差別的であったり、奇矯な政治的主張であったりしても、十分に多くの人々が集まりさえすればそこは広告掲出の場となる、というのが現在の広告テクノロジーの思想だとすれば、そのモラルを問う以上に、メディア価値と広告価値を考え直すべき時にあるのだと考えよう。

次ページ 「開かれた「パンドラの箱」?」へ続く