メール受信設定のご確認をお願いいたします。

AdverTimes.からのメールを受信できていない場合は、
下記から受信設定の確認方法をご覧いただけます。

×

第二の人生でかなえる夢のワイン造り――八ヶ岳西麓の村で始まった二人の挑戦を支えたもの

share

本記事では、宣伝会議「編集・ライター養成講座」46期修了生の、松村真美子さんの卒業制作を紹介します。

原村から望む夕暮れの八ヶ岳連峰

甲信越の住みここちNo.1原村

八ヶ岳連峰、蓼科山、甲斐駒ヶ岳、北アルプス――360度見渡す限り雄大な眺望が広がる。視線を近くに移すと目に飛び込んでくるのは野菜畑や水田などの美しい田園風景だ。

2023年5月、大東建託が発表した「街の住みここちランキング2023(甲信越版)」で長野県諏訪郡の原村(はらむら)が1位に選ばれた。原村は八ヶ岳と諏訪湖の間の標高900m~1300mの高原地帯に位置する。年間を通して降水量が少なく、夏の気候は爽やかで冬の積雪も多くない。昼夜の寒暖差が大きく晴天率が高いため、みずみずしく甘みのある野菜ができると栽培が盛んだ。

豊かな自然に恵まれる一方で、東京や名古屋へも車で2時間30分ほどと都市圏へのアクセスもよい。移住先や二拠点生活の場として選択する人が多く「長野県移住モデル地区」に認定されている。

(図1)長野県諏訪郡原村所在図

(図1)長野県諏訪郡原村所在図

 

その村で、昨年からワイン用ぶどうの栽培を始めた二人がいる。田岡恵さん(52)と鎌倉宏吉さん(56)だ。二人は1.2ヘクタール(1万2千㎡)の畑を所有し、約3500本のぶどうの苗を育てている。

田岡さんは昨年6月に東京から原村に移ってきた。パートナーである鎌倉さんは3年前に大手企業を退職し実家のある原村に戻ってきた。それまで全く異なる道を歩んでいた二人は同時期に通ったワインスクールで出会い、共同でぶどう作りへの道を歩み始めることを決意した。

(左)田岡恵さんと(右)鎌倉宏吉さん背景は二人が所有するぶどう畑

(左)田岡恵さんと(右)鎌倉宏吉さん背景は二人が所有するぶどう畑

 

定年前に第二の人生へ動き出す人が増えている

定年延長や年金支給開始年齢の引き上げなどで生涯労働期間が長期化するなか、定年前に離職を選択する人が増えている。

厚生労働省の「雇用動向調査(※1)」によると30代・40代の離職者数はこの5年間で減少しているのに対し、50代は増加傾向にある。

理由の一部には雇用側の事情もあるが、多くを占めるのは「個人的理由」だ。50代は人生100年の折り返し地点を過ぎ残りの半生をどう過ごすかを考えるタイミング。

定年を機に仕事を辞めて趣味や家族との時間を楽しみにする人がいる一方で、まだまだ働きたい、社会との接点を持ち続けたいと思う人もいる。雇用延長や再雇用制度なども整備されつつあるが、従来と同じ条件で働ける可能性は高くない。その後の長い人生を考えれば、体力気力が充実しているうちに将来に向けた準備を始めたいと考える人が増えたとしても不思議はない。

ミドルシニアの人気を集めるワイン造り

そんな第二の人生の選択肢として人気の一つがワイン造りである。日本ワイナリー協会によれば、日本ワインの人気を背景にぶどう栽培からスタートして将来的にワイナリー設立を目指す人が増えているという(※2)。2022年の全国ワイナリー数は453場で、過去5年で1.5倍に急増した(※3)。

ワイナリーを開設するには小規模なものでも3000~5000万円かかる。ぶどうの苗は植えてから初めて収穫を迎えるまで最低3年必要だ。よほど余裕がない限り、30代・40代の子育て世代には費用的にも時間的にも負担が大き過ぎるだろう。必然的に新規参入はある程度上の年代が主流になる。

実際、田岡さんと鎌倉さんが通ったワインスクールでも受講者のボリュームゾーンは50代だったという。自然豊かな土地に住み、ぶどうやワイン造りに半生をかける。夢を実現した理想的な生活に思えるが、その道に踏み出すときには何を考えどのような準備をしたのだろうか。安定した生活を捨てることに不安はなかったのだろうか。

(図2)全国ワイナリー数の推移

海外で見たワイナリーの風景を思い出す

田岡さんのキャリアはグローバルだ。ロンドンやニューヨークで企業会計の専門職についた後、東京でビジネススクールの講師となる。会計や異文化マネジメントを教える傍らで講演や書籍執筆も行うなど活動の幅を広げてきた。博士号を取得して定年まで教鞭を取り続けるつもりだった。

その計画に迷いが生じたのは2019年、博士課程で単位を取り進めていたときだった。「なんだかしっくり来なかったんです。理屈としては正しいと思ったんですが、気持ち的にワクワクしなくて。今からもうひと頑張りしないといけないのかなって。」そんなとき友人と交わした会話の中でふと以前見た風景を思い出した。

「イギリスやアメリカに住んでいたときにワイナリーを訪れる機会があって自分もいつかこんな風に暮らしてみたいと思ってたんです。」友人たちの後押しもありすぐに決意が固まった。2020年12月末のことだった。それから急いでワインスクールを探して応募、2月に長野県東御市の「千曲川ワインアカデミー」に入学する。博士課程と仕事も継続していたが、自分の関心が一番ワインに向いていることに気づき、数ヶ月後に博士課程を休学する。

一冊の本との出会いと父の急逝

鎌倉さんは、大手ビールメーカーに21年間勤めていた。ワインに興味をもったきっかけは入社8年目頃に会社の方針でワインアドバイザーの資格を取得したことだ。自分でもワインを買って飲むようになりどんどん関心が高まっていった。ワイン造りの道を本格的に考え始めたのは2013年ころ営業として大阪に勤務していたとき。書店でたまたま「千曲川ワインバレー 新しい農業への始点」(集英社新書、玉村豊男著)という本を手に取った。そこには地方創生と就農支援を目的として千曲川流域をワイナリー集積地にしようという壮大なプロジェクトが描かれていた。

「これはすごいと思いました。『ワインを作りたいと思う人がいても体系的に教える機関が今はない。だったら作ればいい』という玉村さんの言葉を見て、この構想が実現してそこで勉強したら自分でもできるようになると思えました。」数年経つと本当にワインアカデミーが設立された(2015年)。ただそのときは実行に移すのは定年退職後だと漠然と考えていた。

そんな鎌倉さんに転機が訪れたのは2019年のことだ。父親が病気で急逝してしまう。

「正月に会ったときは元気だったのに5月に病気が見つかって1か月で亡くなってしまったんです。父は果たして自分のやりたいことをやれたのだろうかと考えたとき、私自身もいつそうならないとは限らない、やりたいことをしておいた方がよいと思いました。」

そんなときにたまたま会社で早期退職プログラムの募集が始まる。さらに父親が残した土地でぶどうが栽培できそうだということも判明した。時期が来たと感じた鎌倉さんは2020年3月に会社を辞め、千曲川ワインアカデミーの6期生となる。

二人が所有するぶどう畑。垣根を使って栽培する

信州ワインバレー構想

日本ワインは近年生産・醸造技術が向上し、世界的なコンクールで高い評価を得ている。なかでも長野県は農地の80パーセント以上が標高500メートルを超え、長い日照時間と少ない降水量、昼夜の大きな気温差などの自然条件がぶどう栽培に適していることから良質なぶどう産地として注目を集めている。ワイン産業の新興にも力を注いでいて2013年には県産ワインを「NAGANO WINE」と称してブランド化し「信州ワインバレー構想」を策定した。産業のすそ野を広げて地域を活性化し、県全体の発展につなげることが狙いだ。県内のワイナリー数は2018年35場から2022年65場に増加した。

「信州ワインバレー」は立地と気候によって「桔梗ヶ原ワインバレー」「千曲川ワインバレー」「日本アルプスワインバレー」「天竜川ワインバレー」の4つに分けられる。今年4月、原村・茅野市・富士見町が主体となる「八ヶ岳西麓ワインバレー」が5つ目に加わった。構想の策定から10年目を迎え、さらなる振興を図るために次期計画「信州ワインバレー構想2.0(案)」も予定されている。

この構想の立役者であり「千曲川ワインバレー」を率いるのが前出の玉村豊雄氏だ。ワイン造りを地域に根づかせるために氏が作ったのが、技術支援のための基盤ワイナリー「アルカンヴィーニュ」と人材養成のための教育機関「千曲川ワインアカデミー」である。

NAGANO WINE オフィシャルホームページ

パートナーシップのはじまり

「最初は一人でやろうと思っていたんです。」二人が口をそろえる。その二人が同じ道を歩むことになった背景にはいくつかの偶然があった。アカデミーに在籍しながら栽培候補地を探していた田岡さんは当初なかなか条件の合うところが見つからず苦戦していた。

そのころ鎌倉さんは原村初のワイナリー開設を計画していた清水昌敏氏と出会い、醸造責任者のポジションに誘われる。醸造責任者として仕事を始めれば父から受け継いだ1ヘクタールもある畑を全て自分で手入れすることは難しくなる。土地を探していた田岡さんが鎌倉さんの畑の一部を借り受けることでお互いの利害が一致することとなり、二人はパートナーとして共同作業をスタートさせる。

実践的な心配ごと

やりたいことが見つかり計画が具体化しても、最後の一歩を踏み出せるかどうかは人によるだろう。まとまった資金を投入してもリターンが約束されているわけではない。先の見えない不安に思いとどまってしまう人もいるのではないだろうか。歩み出す際に不安はなかったのか二人に聞いてみた。

「最初一人でやろうと思っていた時は体力が一番心配でした。一人で農作業が全部できるんだろうかって。二人でできることになったのは大きかったです。」と田岡さん。

一方、鎌倉さんは「不安はあまりなかった」と言う。「原村は標高が高いのでぶどうがちゃんと育つかは気になりました。でも先輩が成功していたので大丈夫なのはわかっていたんです。先輩がいなかったら相当不安だったと思います。」

二人が不安を感じていたのは、不透明な未来や資金を失うかもしれないといった漠然としたものではなく、体力やぶどうの生育といった計画遂行に関わる実践的なものだった。道を決めて勉強や調査を具体的に進めると、やるべきことやできないことが明確になり、不安への解像度も自然に上がるものなのかもしれない。

10年計画の収支計算

資金の心配はなかったとはいえ、実際収支がどうなっているのかは気になるところだ。

「初期に必要なのは苗や垣根、農機具などで1000万~2000万円ほどでしょうか。年間経費は肥料やガソリン代など100万円以内です。苗が一本1500円くらいするので結構かかるんです」と田岡さん。3500本の苗木を仕入れるには500万円以上かかることになる。農地の賃借料を尋ねると「この辺だと10アール(1000㎡)あたり年間3000円から5000円くらいで借りられるのでさほどではありません。」との答えが返ってきた。1.2ヘクタール(120アール)だと年間3.6~6万円ほど。土地の広さを考えればたしかに大きな金額ではない。

「来年初収穫の予定ですが、初年度はワイン数百本~1000本くらい作れたらと思っています。フルに収穫できるまでしばらく収支はマイナスです。キャッシュフローベースでは3年くらいで年間トントン、累積の利益ベースでは10年くらいで損益分岐できたらいいなと思っています。」

会計は田岡さんの専門だけに計算もきちんとできているようだ。

ワイン造りへのこだわり

鎌倉さんが醸造責任者として日々ワインと向き合うのは2022年10月に開設された「八ヶ岳はらむらワイナリー」だ。社長の清水氏に声をかけられ、6月に入社した。鎌倉さんと田岡さんのぶどうも来年ここでワインになる予定だ。

ワイナリーの外観。中ではワインの販売もしている

ワイナリーの中を見せてもらう。まだ新しい建物に足を踏み入れると、正面奥に大きなガラスが見える。その向こうは醸造工場になっていて、美しい光沢を放つ金属製の大きなタンクがいくつも並んでいる。鎌倉さんによれば作るワインによって使うタンクが異なるのだという。

「赤ワインと白ワインではタンクの形状が違います。白ワインは酸化を防ぐために蓋は小さくなっていますが、赤ワインは定期的にかき混ぜる必要があるので上部が大きく開いています。赤ワインは中に果皮や種子が溜まるので掃除しやすいように下も開くようになっています。」

白ワインは果汁だけを発酵させるが、赤ワインは果汁・果肉・果皮・種子全て使う。色素や成分を均一に抽出するためには浮いてくる果皮や果肉をかき混ぜる作業が欠かせない。これを発酵期間の2ヶ月間毎日2回行うという。

発酵に使う酵母や熟成用の樽にも鎌倉さんのこだわりがある。

酵母が何百種類も掲載されている冊子を開いて「この中からぶどうの個性と自分の作りたい方向性にあわせて一つ一つ選びます。今はまだいろいろと試している段階なんですが」と説明してくれた。

醸造場にはステンレスタンクがいくつも並んでいる

醸造場の隣には貯蔵庫があり熟成中のワイン樽が並んでいる。「樽は全て輸入しました。樽も木材や作り手によって全然違うんです。同じフランスでもブルゴーニュとボルドーでは形も容量も違いますし、それぞれ個性がありますね…」

ワイン醸造に関することになると鎌倉さんは話が止まらなくなる。

「人生最高の決断」

「昨年土壌の改良のためにライ麦を撒きました。ライ麦は根がしっかり張るので、土の間に隙間ができて柔らかくなるんです。今は草刈りや芽かき、防除という病気を防ぐ作業などが中心です。7時頃まで明るいので、5時半にワイナリーが終わってからでも十分作業できます。」

鎌倉さんは醸造責任者として働く傍らで、休日を中心に勤務日も時間が空く限り畑作業を行っている。

(左)植え替え用の苗木 (右)苗木の周囲に育つライ麦

田岡さんも畑仕事と教育業を兼務する。「リモートワークでオンライン100%の大学の仕事を行っています。ぶどうで収入を得られるまでもう少しかかりますし、教育を続けたい気持ちもあるのでしばらく兼業の予定です。」

今の心境を訊いてみた。

「ビールの営業をしていたときは、朝から晩まで好きなワインのことを考えていられたらいいなと思っていましたが、今はそういう暮らしになりました。自分の好きなワインを作るという希望も今の立場で実現できています。ぶどうが病気になってつらかったときもありますが十分充実しています。」

鎌倉さんが控えめに満足ぶりを語るのに対し、田岡さんの口調は歯切れがよい。

「人生最高の決断だったと思っています。1秒1ミリも後悔したことはありません。大自然に囲まれて、おいしい水と新鮮な野菜、これ以上何が必要なんだろうって思います。支え合えるパートナーに出会えたこともラッキーでした。最悪なことといってもお金を失うくらいですし自給自足すれば死ぬことはありません。あとはやるだけです。」

醸造場内の田岡さんと鎌倉さん

二人の話を聞いて50代で夢に踏み出すために必要なことがわかったような気がした。若いときであれば憧れや勢いだけで飛びこむこともできるかもしれない。でもミドルシニアに必要なのは、地に足のついた準備としなやかなスタンスだ。これからの半生をかける道を定め、最低限の収支計算をし、失敗してもなんとかなるという気構えを持つ…。

社会人として人としてこれまで積んできた経験は決してあなどれない。二人の歩みは自分を信じて一歩を踏み出すことに勇気を与えてくれる。

二人の所有するぶどう畑から望む原村の虹

【出典】
(※1)厚生労働省 雇用動向調査 結果の概要(平成29年~令和3年)
(※2)日本ワイナリー協会ホームページ「日本ワインの基礎知識」
(※3)国税庁 酒類製造業及び酒類卸売業の概況(令和2年~4年)及び、国内製造ワインの概況(平成28年~平成30年)

松村真美子氏

松村真美子

東京都新宿区在住。大学卒業後、外資系IT企業を経てビジネス教育業界へ転身。サービス企画開発、プロダクトマネジメント、講師業などに従事する傍らで、記事執筆を手掛ける。良い文章とは何かを求めて受講した本講座で書くことの面白さに目覚める。

 

<コメント>
編集・ライター養成講座46期の受講を決めたときは、まさか書くことがこんなに楽しくなるとは思いもしませんでした。仕事で初めて記事を書くことになった時、数千という文字数をどうやって埋めればよいのか途方に暮れたことを思い出します。今になって思うと恥ずかしいことですが、よい文章とは何なのか、何をどう考えて書けばよいのか全くわかっていませんでした。

 

そんな中でも何かを感じ、もっとうまく書けるようになりたいと講座の門を叩いたのが半年前。クラスでは予想通り一線で活躍する個性あふれる先生方から多くのことを学ぶことができました。中でも印象に残っているのが小人数クラスです。1000~3000文字の課題に計4回に取り組みました。全くダメダメだった1回目から徐々によい評価を頂けるようになっていったことは一番の自信につながっています。常に的確で本質的なフィードバックを下さった石川先生には感謝の気持ちで一杯です。

 

そして、もう一つ記憶に残るフレーズがあります。
「あなたには書く力がある」
山田ズーニー先生のこの言葉は、もしかしたら私でも、いつか書くことで人の心を動かすことができるかもしれないという妄想を抱かせてくれました。この言葉を胸に今後もライフワークとして書き続けたいと思います

 

最後になりましたが、ご指導いただいた講師のみなさま、事務局のみなさま、半年間本当にありがとうございました。そして誰よりも卒業制作にあたり、惜しみなく時間を割いてインタビューに答えて下さった田岡さん、鎌倉さん、お二人のご協力に心からお礼を申し上げます。お二人の作るワインで乾杯させて下さい!