第二次世界大戦終結後、現代的なパブリック・リレーションズ(PR)の実務が本格化し、それはアメリカだけでなく、世界各国に広がっていきました。
イギリスにおいては、ティム・トラバース・ヒーリーが、グローバルなPR実務の現代的構築者の一人として広く認知されています。彼はイギリスでその活動を始め、6大陸・数十カ国にまでその影響を広げました。卓越した実務家、教育者としてのキャリアを通じて、PRを単なる戦術ではなく「哲学」に基づく専門職であると捉え、そのビジョンと洞察を広く共有しました。
第二次世界大戦下に従軍中、PRの著書に出会う
1923年に生まれたトラバース・ヒーリーは、最初は医学を学びましたが、その後ロンドン大学でコミュニケーションの学位を取得しました。彼がPRという職業に出会ったのは、第二次世界大戦中にフランスのドイツ占領地域の背後に空中投下されたパッケージを通じてでした。
彼は当時、イギリス海兵隊の特殊部隊として従軍していたフランスで、空中投下物のなかにあった、クリストファー・ファーザーズのPRに関する著書に出会いました。トラバース・ヒーリーは、イエズス会の教育と両親の影響に自身のPR観を組み合わせ、「人に仕えることで神に栄光を帰す」という個人的な使命を形づくりました。
「現代PRの父」とも呼ばれるアイビー・リーの父親も牧師であり、19世紀末から20世紀に活躍したPRの実務者には牧師や教会関係者が多かったと言われており、トラバース・ヒーリーもその一人だったと思われます。
PRという技術に社会的価値と力を注いだ1950年代
戦後ロンドンに戻った彼は、1947年にPRコンサルタント会社「トラバース・ヒーリー」社を設立しました。軍隊での訓練を活かし、「実行」よりも「思考」に重点を置いた戦略志向のPRを展開しました。この新たなアプローチは、情報収集、調査、戦略を重視するものであり、その成果としてコンラッド・ヒルトン、ナショナル・ウェストミンスター銀行、AT&T、エアバス・インダストリー、キャドバリー、フォード・モーター、ユニリーバ、米国商務省などの企業や団体を顧客としました。
世界各地を訪れ、様々な組織の優れたPR実践者と交流しながら、彼はその経験を自らの哲学の洗練に活かしていきました。彼は、当時を振り返って「1950年代は、PRという技術に社会的価値と力を注ぎ、戦争の惨禍からの再建を図る時代だった」と述べています。
現代PR教育の発展に貢献、大英勲章の授与も
また、トラバース・ヒーリーは、現代PR教育の発展にも多大な影響を与えました。英国で初となるPR修士課程を設けたスターリング大学では教授を務め、ウェールズ大学、ウェストミンスター大学、トゥールーズの欧州航空産業経営学校、米国のボール州立大学やベイラー大学などでも客員教授やコンサルタントとして活動しました。
このほか英国PR研究ネットワークの事務局長、英国PR教育信託の会長、国際PR研究教育財団の会長、国際PR研究財団の会長など、教育関連の多くの委員会・団体に携わりました。ビジネスと同様、教育の場でも彼は、社会的責任に基づいたPR実務において「哲学、戦略、思考」の重要性を強調しました。彼はこの姿勢を「職業(プロフェッション)と技術(クラフト)の違い」と表現しています。
彼は自身のPR実務を確立する一方で、教育分野においても知見を広めたことで、プロフェッショナル開発の第一人者としての地位を確立しました。彼のビジネス成功の根底には、PR分野における職業倫理や専門的基準を問い直し、育てていこうとする姿勢がありました。
1948年には「Institute of Public Relations(IPR)」の創設メンバーとなり、1956年にはフェローの称号を獲得、1967〜68年には会長を務めました。欧州PR連盟や国際PR協会(IPRA)でも要職を務め、1950〜1961年には創設時の事務局長、1970年と1973年には世界PR会議の議長を2度務めました。また、PR業界における長年の貢献を称えられ、英国の最高栄誉賞のひとつである大英勲章(OBE)を授与されています。
