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コラム

メディア野郎へのブートキャンプ

「スクープ」と「誤報」の曖昧な境界線とメディアが持つ影響力の本質

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さて、このような文脈を経て考えると、ネット中心でやっているニュースメディア、ブログなどによく見られる「間違った情報を伝えても、事後で訂正して、謝罪をすればいい」という態度には、問題がないとは言えないことがおわかり頂けると思います。これまで述べてきたように、メディアというものには、公に向かって書いた瞬間、伝えた瞬間からその内容を自己実現させる方向に向かう引力が生来のものとして備わっているわけです。前述のように、ある企業の生き死に関するようなシビアな場面において、予言が自己実現するように企業を「倒産させてしまった」後に、「あれは、間違いでした。記者が財務諸表から引用した数字に勘違いがありましたので、お詫びして訂正します」と書いたところで、倒産してしまった企業が復活するわけではありません。すでに取り返しがつかないのです。

いわゆる大手ジャーナリズムの文脈で「事実確認」の重要性が口を酸っぱくして語られるのは、このような自分たち自身の影響力について、長い組織的蓄積の結果から、ネットメディアの一般的な水準よりはよく自覚しているからでしょう。そして、このような自分たち自身の「影響力」を自覚した結果がもたらす、ある意味では、禁欲的で手間暇のかかる非効率的とも言える情報発信の態度こそが、ユーザーから見た時の、そのメディアへの信頼感の根拠であり続けてきたわけであり、広告的に言えば、単に「クリックいくら」といった短期での費用対効果ベースに還元されない広告価値を認められ、プレミアムな広告メディアとして存在意義を発揮してきた本質と言えるとも思っています。

つまり、ネットメディアの立場から考えると「間違っても後から直せばいい」と居直ってしまっていると、いつまで経っても、「クリックいくら」、「インプレッションいくら」というコモディティ化された広告スペースの量り売りから脱却できなくなってしまうと筆者は考えています(この状況を受け入れたうえで、立てる戦略というのも、もちろん「あり」と言えなくはないのですが)。なぜならば、ターゲティング技術がどんどん進展していく中で、単に広告メッセージをオーディエンスに到達させる「手段(広告用語で言うヴィークル:乗り物を意味)」を超えた付加価値を、広告主に対して認めてもらおうとするときには、「メディアブランドとしての信頼感」が鍵になるわけですが、そのような信頼感とは、これまで説明してきた、自分自身が「予言を自己実現させてしまう影響力」を持っていることへの組織的な自覚から醸成されてくると思っているからです。

筆者は、広告主が、「クリックいくら」「コンバージョンいくら」での「刈り取り」的なレスポンス広告に対してではなく、いわゆる「無から商品への需要それ自体を生み出す」ようなブランディング広告に対して、おカネを払うときに、メディアやメディア編集者に対して、心のどこかで「マジック」を期待しているのだなと感じ続けてきました。

実際に、今回のコラムで説明したように(本当に信頼されている)メディアには、予言を自己実現させてしまうような「マジック」を起こす能力があるわけです。しかし、メディア人として、そのようなマジックを司る「魔法使い」を目指すのであれば、日々、自分たちの行動を見つめ、いわゆる「ステマ」的なダークサイドに落ちることは言わずもがなですが、メディアが本来的に持ってしまっている影響力について、日々、自覚的であるべきなのは言うまでもありません。

いまや、誰もがメディアになれる時代であり、つまりは誰もがマジックの種明かしに挑戦できる時代になったわけですから。

さて、次回のコラムでは、メディアと、テクノロジーやユーザーの接触環境との関わりについて考えてみたいと思います。今回のコラムでも述べたように、メディアの価値にとって信頼感や影響力というものは決定的に大事なものです。そして、メディア業界が今後進むべき道を論じると、よく出くわす考え方に「メディアは、信頼されるコンテンツ・記事内容を提供することにこそ使命があり、それはメディア環境や技術の進展には関係ない」という意見があります。私は、これは半分正しくて、半分は間違っている意見だと思っています。なぜそうなのか?次回コラムをお待ちください。

今回もお読み頂きまして有難うございました。お読み頂いた方からの意見・感想・コメントをお待ちしております。

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